お市の方との悲劇の舞台「小谷城」 浅井長政は愛妻を逃し籠城した
三姉妹が誕生
お市の方は美貌の持ち主と知られており二人の仲も睦まじいものだったと伝えられ、生まれたのが長女茶々、二女初、三女江の三姉妹です。 茶々は秀吉の側室となり、初は若狭小浜藩の京極高次に嫁ぎ、江は徳川二代将軍になる秀忠の正室となります。江は秀忠に嫁ぐ前に秀吉の甥・羽柴秀勝に嫁いでおり、完子(さだこ)という娘をもうけています。完子は叔母である淀殿のバックアップもあって、摂関家である九条家に嫁ぎます。
信長の数少ない負け戦
話がそれましたが、永禄11(1568)年、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を将軍とします。信長は将軍義昭を名目とし、各地の大名に上洛を促しますが、越前の朝倉義景はこれを拒否。これに怒った信長は同盟関係だった徳川軍とともに3万の兵を率い、元亀元(1570)年、越前討伐に向かいます。 この時朝倉との同盟を重んじた浅井長政は信長を裏切り、背後から襲いかかります。さらに朝倉との挟撃で織田、徳川連合軍を追い詰めます。これが信長の数少ない負け戦として知られる、金ヶ崎の戦いです。
浅井・朝倉軍の敗戦
この時の逸話として、お市が両端の紐を結んだ袋に小豆を入れ、信長に送り包囲の危機を知らせたというものがあります。そういう話が出てくるくらい絶体絶命だったのです。 信長は、殿(しんがり)を務めた羽柴秀吉の活躍もあって、命からがら越前敦賀から朽木を越えて京に逃げ延びると、2か月後には兵を立て直して近江に迫ります。浅井長政軍8000は朝倉義景軍5千とともに姉川に布陣し、織田軍1万、徳川軍3000が激突。激しい戦闘になり、小谷城は何とか持ちこたえるも、浅井・朝倉軍の敗戦でした。
武田軍が来ていたら…
さらに元亀3(1572)年、信長軍が近江に来襲します。朝倉軍が応援に駆けつけ、武田信玄の軍も足利義昭の「信長討つべし」の要請に応え、来援する予定でしたが、信玄の急死で武田軍は甲斐に戻ってしまいます。もしも、武田軍が来ていれば織田・徳川軍は追い詰められていたでしょう。 そして天正元(1573)年、信長軍3万は越前の朝倉義景を一乗谷に攻め、滅亡させたあと近江に進軍。小谷城を攻めたてます。浅井長政は籠城するも、自害し果てます。享年29。