「三億円事件」有力容疑者は“警察官の息子”とされるも…「やつはシロだ」と昭和の名刑事・平塚八兵衛が判断した根拠とは
立川グループ
三億円事件が発生する4日前の昭和43年12月6日、被害を受けた日本信託銀行の国分寺支店長宛てに速達で「7日午後5時までに、(指定した場所に)300万円を女子行員に持ってこさせるように。従わないと支店長宅を爆破する」という脅迫状が届いた。翌日、行員に扮した女性警察官ら50名で現場を固めたが、犯人は現れなかった。この「支店長宅」「爆破」というのは、犯行時にも犯人から発せられている。 また、同年4月から8月にかけて、府中市東部にある多磨農協に対し、東芝府中工場の給料日とボーナス日に脅迫があった。この時の脅迫状と、前述の支店長宛ての脅迫状の筆跡が一致することなどから、のちに特別捜査本部は三億円事件と合わせ三件の犯行は同一犯との見方を固めている。 事件のあった1968(昭和43)年は、厚生省(当時)が大卒初任給の調査を開始した年でもある。ちなみに、同年の初任給は3万600円だった。 「約3億円という莫大な被害額、警察官に偽装した犯人、そして都内一円に緊急配備を敷いたのにまんまと逃げられた――前例のない犯行に、まさに警視庁の威信をかけた捜査が展開されました。ただ、冷静になって考えてみると、この犯人は泥棒です。偽装した白バイも逃走用のクルマも全て盗品。窃盗犯捜査でよくやる、累犯被疑者の洗い出しを丁寧にやっていけばいいのですが、何せ、前代未聞の事件ですし、殺しが専門の捜査一課員も特捜本部に送り込まれてくるし、警官を偽装ということで公安も動くし、マスコミの取材は殺到する……設置当初の、特捜本部はてんやわんやの状態でした」(発生直後から捜査本部に詰めた警視庁捜査第1課OB) 自動車盗やバイク盗の常習者で、現場周辺の土地鑑のある人物――特捜本部が早くからマークしていたのが「立川グループ」とよばれる立川市内で自動車窃盗などを繰りかえしていた非行少年グループだった。 平塚氏が特命捜査を命じられたSは当時18歳。立川グループのメンバーであり、父親が現職の警視庁警察官、それも白バイ隊員だった。特捜本部は早くから目を付けていたが居所が判明せず、事件から5日後の12月15日、立川警察署の刑事の来訪を受けた際に、家人は「留守だ」と言ったが、Sはその日の深夜に青酸カリを飲んで自殺した。謎めいた死も相まって、三億円事件を巡る大きな謎の一つになっている。 平塚氏の特命捜査はどう、展開されたのだろうか?