パブ勤めから介護職へ、変わりゆく在日フィリピン人たち #ニュースその後
それにフィリピンパブでは、素の自分をさらけ出せるのだと語る客もいる。俺はどこそこの部長だ、なんて偉ぶったところで外国人の彼女たちにはわからない。「だからなによ」と笑い飛ばされてしまう。それが心地良い。 そんな客でにぎわう栄だったが、ネリーサさんもまた、ほかのホステスの誰もがそうであるように稼ぎのほとんどを故郷に送った。 「自分より家族が先。それがフィリピンの文化だもんで、そうやってあたしたち育てられてきて。自分の生活もあるのに、ぜんぶ送っちゃう」 2000年にミンダナオ島のスリガオから来日したベリンダさんも同様だ。 「相手が幸せな顔になると、自分も幸せになるの。それがフィリピン人」
高度経済成長期を陰ながら支えた
フィリピンパブの源流は1960年代にあるといわれる。その頃、バンドやダンサー、歌手として日本に出稼ぎに来るフィリピン人がたくさんいたそうだ。働く場所はおもにキャバレー。現在のキャバクラとは違い、ステージでのショーを見ながら飲める店で、フィリピン人はムードを盛り上げるエンターテイナーとしてずいぶん重宝されたらしい。 彼らは「興行(タレント)」という在留資格(ビザ)を取得して日本に働きに来ていたが、この「興行」なる枠がどんどんと拡大解釈されていく。フィリピン人女性を歌手やダンサーではなくホステスとして働かせる店が増え、やがてそちらが人気になっていった。 こうして全国的にフィリピンパブが増えていく。とくに愛知県には多かった。この地域は製造業がさかんで出稼ぎ労働者の集まる土地柄のため、男性人口が多かったからともいわれる。それは日本のほかの場所でも同様で、工業地帯があるような街ではたいていフィリピンパブも乱立し、繁盛した。 つまりフィリピン人女性たちは高度経済成長期の日本を陰ながら支え、伴走した存在であったようにも思える。もちろんそこには借金を抱えて来日することの理不尽、ブローカーの搾取、店でのハラスメント、それに惚れた腫れたの男女の悲喜劇も含めたさまざまな問題があったことも確かだ。 それでも家族のためにと異国の夜で働くものの、彼女たちの興行ビザは在留期間が半年だった。切れるといったんフィリピンに帰国するが、また日本に呼ばれるかどうかはわからない。