【プロ1年目物語】監督との確執、二軍で驚異の46試合連続ヒット…イチローになる前の知られざる「オリックス鈴木一朗」
MVPの賞金100万円は、「オリックスのフランチャイズがある神戸市に寄付しようかとも思っているんですよ」と初々しいコメントを残した鈴木。一軍では40試合の出場で打率.253。ウエスタンの打率ランキングでは2位以下に4分以上の大差をつけて、トップを独走。終わってみれば、238打数で87安打を放ち、打率.366で1960年の高木守道(中日)以来の高卒新人での首位打者を獲得する。ベースボール・マガジン社選定の「ビッグ・ホープ賞」にも、巨人のドラフト1位右腕・谷口功一とともに選ばれた。 年俸は370万円アップの推定800万円に。『週刊ベースボール』1992年12月7日号では、「足も速い、打球も速い、おまけに送球も速い スピーディー・鈴木一朗は現代野球の申し子だ!!」なんてパワープッシュ。百メートル11秒台後半の俊足に投手として140キロを投げられる強肩の持ち主で、毎年なんとか3位に滑り込むも、V争いにはほとんど絡めないオリックスを変える若手だと紹介されている。
振り子打法を貫いて
だが、土井正三監督をはじめとした一軍首脳陣は、鈴木のフォームを改造しようとしていた。土井監督は「太くて短いバットで地面に叩きつけろ」と俊足を生かしたスタイルを求め、嫌々ながらアドバイスに従う内に背番号51の打撃の形は崩れていく。2年目の3月にオープン戦の阪神戦でホームランを放つも、当時の一軍打撃コーチは「鈴木は一番にピッタリだと思っていたんだが、どうもあっさりと凡退するケースが目立つ。今の状態だと、一番は苦しいね」と四球が少ない打撃スタイルに苦言を呈した。1993年開幕戦は、「9番・中堅」でスタメン出場。2戦目には「1番・中堅」で起用された。やがて左投手がマウンドに上がるとまったく出番がなくなり、代走での途中出場が多くなっていく。 「入団二年目のオープン戦で一応三割は打っていました(※オープン戦最終成績は打率.273)。開幕9番、スタメンは当然と思っていたんですが、3打数無安打だったのに次の試合はいきなりトップ。びっくりした。それで第2打席で左中間の二塁打を打ったけど、次の打席は三塁ゴロ。結局12打席立っただけで二軍行き。あれではどうしようも納得が出来なかったですよ。なぜ僕が二軍に落ちなければいけないんだ、と思いました。納得がいきません。二軍で好成績を出して、誰が見ても一軍に上げなければいけないという状況を作ろうと、必死で結果を出していましたからね」(イチロー 素顔の青春/吹上流一郎/ワニブックス) そして、二軍降格したイチローはその言葉通りに打ちまくり、ウエスタン・リーグで4月25日の広島戦から8月7日の阪神戦まで、リーグ新の30試合連続安打を記録してみせるのだ(前年の6月20日から2シーズンに渡り46試合連続安打の快挙だった)。格の違いを見せつけながらもファーム暮らしの屈辱の日々の中、二軍の河村健一郎打撃コーチと作り上げていくのが、のちに代名詞となる「振り子打法」である。足でゆっくりと大きくタイミングを取るイメージで、右足と左足を交差させるフォームを考えたという。たまに一軍に呼ばれて、土井監督から「体の芯が流れてしまっているから打てない」と酷評されようが、もはや意見を聞く気はなかった。