<“さまよえる天才”レオナルド・ダ・ヴィンチ>時代におさまらない異才の宿命と、〈大洪水〉の幻に包まれた晩景
トスカーナの公証人の庶子として生まれたレオナルドは、農家の娘の母親、カテリーナの深い愛情を独り占めした幼児期を送った。しかし、父親が貴族の娘のドンナと再婚することによって、この母子の麗しい蜜月は断ち切られることになる。幼児期の屈折した母子関係の断絶が成長とともに彼を女性から遠ざけ、一方で幼児的で同性愛的な世界への親近と、森羅万象にわたる科学的な探求心を育てた‥‥。 弟子のメルツィとサライという青年を身近においたほか、女性との交渉をほとんど持った形跡のないレオナルドが、自然の万象に対する犀利なまなざしをはぐくんでいく背景を、フロイトはそう見立てた。 「玩具」への愛着もまた、その幼児期の母親と密着した「失われた良き日」に対する追憶がよびおこすのではないか、と。精妙な「玩具」のメカニズムへの子供のような熱いまなざしは、その源からたどれば、レオナルドが長じてその禀質として開花させる自然や人体への解剖学的な探求心につながっていったように見える。
作品のほとんどは未完のまま廃棄
〈彼は鳥を売っている店の前を通ると、いつも自分の手で籠から出し、乞われた値段を払って鳥を空中に逃がし、失われた自由を取り戻してやるのだった。このようなことで自然は彼に好意を十分に示し、彼の仕事のなかに思考や頭脳、精神の大いなる神性が示され、その敏速さ、生気、寛大さ、美しさ、優雅さなど、誰も匹敵すものがいないほど、恵まれたものであった〉 ヴァザーリはレオナルドが生まれ持った美しい器量と才知、そして生命への深い哀れみの一方で、解剖や実験を通して併せ持った自然への鋭い洞察と怜悧なまなざしをたたえたあと、「よく知られていることだが、レオナルドはその知性的な技量により、多くのことを始めたが、何も完成しなかった」とつけ加えるのを忘れていない。 フィレンツェがローマの教皇庁を巻き込んだ都市国家の抗争に揺れるなかで、僭主ロレンツィオ・メディチの寵愛を受けた若い日のレオナルドは軍事や土木技術、医学、さらには物理学などについての知見をもとに技術的な提案を重ねた。そのなかには今日の航空技術や土木工学、医学などの発明にもつながる画期的な意匠も少なくない。 アルノ川を改修してピサとフィレンツェを結ぶ河川工事に、並外れた構想力を発揮する。あるいは都市防衛のための移動要塞や石礫を使った投擲機などの新たな軍事技術、ヘリコプターの原型の空中移動技術からプレートテクトニクス理論の初歩に至るまで、その膨大な知見は、現代文明にもつながる先見性をのぞかせる。 ところが、こうした構想が実際に軍事技術や都市基盤として実現されたものはごく稀だった。アイデアがことごとく実現をみることがなかったのは、その知識が〈神〉を中心に持ったこの時代にあってあまりにも急進的であり、現実との乖離が甚だしかったことも一因であったろう。 それに加えて、自然と人間を巡る森羅万象の深淵に向かって移ろい続けるレオナルドの過剰な知の器量は、あふれ出たアイデアの奔流に阻まれて、メディチ家と約束した多くの教会の絵画や壁画などの制作は未完のままに放棄されたのである。 1481年にローマ教皇庁のシスティーナ礼拝堂を飾る壁画の制作の晴れ舞台に、フィレンツェの政庁が推薦したのはボッティチェッリをはじめとする同世代の4人で、レオナルドの名前はそこになかった。移り気と完全主義が、画家としての信頼を損なったのである。この気まぐれな異才を持て余したロレンツォは彼をミラノへ送った。 「メディチ家が私を創り、そしてメディチ家が私を台無しにした」という、彼の残した言葉は痛切だ。それはレオナルドという時代の器に収まりきらない異才の宿命でもあった。