私たちはなぜ人を愛するのか? そして何が真か、何が善か、何が美か……
真・善・美とは何か?
話はそれるが、愛のついでに真・善・美についても述べよう。真・善・美も、愛と同じく、物理世界には単独で存在しない。だから、これらも、人間の心が作り出した概念であることは間違いない。 いや、宇宙の根本原理のように物理現象の真理・真実というのは存在する、という人もおられるだろう。ここでは、そうではなく、数学でいう真偽の真、つまり、正しいか正しくないか、という概念のことを考えてみたい。 それから、善は、良いか、悪いか。 そして、美は、美しいか、醜いか。 これらは哲学の研究対象だということになっているが、私もこれらにとても興味がある。愛と同じく、直感的に、「私」の中にある重要な何かだという気がする。このため、私は、真とは何かを知りたくて科学技術に携わっている。善とは何かを知りたくて、最近は倫理について教えている。美とは何かを知りたくて、趣味で絵を描くし、大学で盆栽や人の歩行の美しさの研究をしたこともある。 しかし、これらは心が作りだしたものだから、何が真か、何が善か、何が美か、という問いには絶対的な正解はない。 正しいと思っていたことが正しくなくなることは、歴史をひもとけばいくらでもある。良いと思っていたことが良くないことになることもある。戦争や紛争を見れば明らかだ。戦う者は、どちらも、自分たちの方が真であり善であると考えている。価値は相対的で、正解がないから、世界中で戦争や紛争が絶えないのだ。 美しさも普遍的ではない。日本では昔はおたふくが美人だったが、今は西洋風の顔が美人ということになっている。つまり、真に美しいものなどない。やはり、価値は相対的だ。 これらは心の中の意味記憶によって、環境という文脈の中で定義されたものだ。真・善・美についての考え方がいくら多様だろうと、これらは心が作り出したものだ。 では、なぜ、心は真・善・美という概念を生み出したのだろうか? やはり、そうであると都合がいいようなまとまりを、心がボトムアップにみつけ出した結果なのだと考えられる。 愛のところで述べたように、生物はまとまりを生成しようとするシステムだから、形成されたまとまりが、真であり善であり美であるということに過ぎないのだと思う。 視覚の錯覚と似ている。錯覚は、そうであったら都合がいいように見えてしまう現象だ。同じように、それが真であったら自分や社会にとって都合がいい、それが善であったら自分や社会にとって都合がいい、それが美であったら自分や社会にとって都合がいい、という原理によって、小びとたちの多数決で形成された概念が真・善・美なのだ。 人間の意識である「私」は受動的なのに、あたかも主体的な存在であるかのように錯覚しているのだった。同じように、人間の価値規範である真・善・美は相対的なのに、あたかも絶対的なものであるかのように錯覚している。錯覚とは言わないまでも、それぞれの人ごとあるいは社会ごとに価値基準を決めて、それにしたがっている。 主体的であると錯覚している「私」たちが、真・善・美は絶対的なものであるかのように錯覚する、というのは結果的にまとまりを自己組織化する生物の原理から考えて、もっともな気がする。トップダウンに自分を支配する「私」がいるのではないのと同じように、トップダウンにこれが真、これが善、これが美、と与えられているのではない。小びとたちの多数決によって、ボトムアップに自分なりの真・善・美を決めていくのだ。人の社会といっしょだ。 家族、学校、地域、会社、政党、学会、宗教、国家など、人は様々な大きさの社会を持ち、その社会の中での真・善・美の規範をきめている。あなたの小びとたちはこれと同じことをやっている。生物の原理は個体レベルでも群レベルでも同じようなものだから、心の社会は実社会の縮図であり、人間たちがやることと、小びとたちがやることは大差ないということだ。 そして、その作用は愛と似ている。人と人とのつながり、結局は、〈私〉と〈私〉とのつながりを再確認して安堵したいがために作り出された概念なのだ。 【参考文献】 ・『脳はなぜ「心」を作ったのか ── 「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房、2004年) ・Dawkins, R.: The selfish gene, Oxford University Press, 1989. (和訳:リチャード・ドーキンス:利己的な遺伝子、科学選書、1991.) ※次回は7/30ごろ掲載予定です。