私たちはなぜ人を愛するのか? そして何が真か、何が善か、何が美か……
愛とは〈私〉のネットワークの再確認
しかし、子孫繁栄と遺伝子の存続にすべてを帰着させようという、今はやりの議論には、私はなにか胡散臭さを感じる。なんだか、うそっぽい。 私は、未来の子孫とか遺伝子とかには関係なく、リビドーにも関係なく、いま、ここにある自然や宇宙、ここにいる妻や子供たちを、もっと純粋に、素朴に、真摯に、愛しているんだよ、という気がする。「私」の中に存在している愛というクオリアは、もっと本質的に「私」の性質の一部であるような気がする。 私は、そんな直感は正しいと思う。つまり、ドーキンスやフロイトの主張とは違って、愛とは素朴に、〈私〉のネットワークの確認手段として心の中に生じた概念なのではないか、と思う。 つまり、こうだ。 異性や、親や、子など、あなたにとってかけがえのない人とのコミュニケーションは、あなたにとって最も大切な営みのひとつであるに違いない。これはなにかというと、大切な人とのコミュニケーションの結果、大切な人とのインタラクションの内部モデルをあなたの脳内に構築するということだ。 コミュニケーションしている相手の人はこう考えているに違いない、と類推するための内部モデルが脳内にあることを、『人間は「心の理論」を持つ』という。「心の理論」という他人の行動や言動の内部モデルを使って、〈私〉や「私」は世界とインタラクションしている。 〈私〉や「私」と世界とのインタラクションが性的である必然性はない。様々な形でのコミュニケーションがとれればいい。それに、遺伝子に頼らなくても永遠だ。なぜなら、同じ〈私〉が世界中に星の数ほどもあるのだから。 インタラクションの結果、私たちが、異性や子どもや他人や外部世界を愛するということは、それらの内部モデルを愛するということに他ならない。これは、他人の中にも〈私〉がいることを発見するとともに、自分の中にある〈私〉と他人の〈私〉が同じであることをかいま見たことの安堵感なのではないだろうか。 生物はまとまりを作り出すシステムだといわれる。原始生物は自己組織化によって形作られたし、神経はよく使われるほどよく発火する。神経はまとまって発火するときに意味や記憶を形成し、協調的な情報処理を行なう。視覚の錯覚は脳がそうであって欲しいと思う方向にゆがめられた結果だし、聴覚や触覚にも同様な錯覚が知られている。人は他人と協調しているときに安堵するし、物事に意味や価値というまとまりを見つけようとする。価値を共有する社会では人々は同じような考えを持つ。作り出されたまとまり自体が生物や生物社会そのものだといってもいい。 〈私〉が世の中にたくさん散らばっているとき、それらはやはり生命の原理に従い、まとまりを作り出すことを目指す。〈私〉のネットワーク作り。そのために作り出された仕掛けのひとつが、愛なのだ。つまり、誰の心の中にもある〈私〉は、皆、ひとりではない、ということを感じるために、自己組織的に、ボトムアップに作り出された概念が、愛なのだ。〈私〉のネットワークを実感し安堵したいという心の叫びによって。 〈私〉たちは、みんな、純粋に、仲間だ。そして、〈私〉たちは愛によってつながっている。〈私〉たちはひとりではない。