周囲の人々を戸惑わせた、光君の「大胆な申し出」 「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・若紫③
「阿弥陀仏(あみだほとけ)のいられますお堂で、お勤めをする刻限でございます。夕べのお勤めをまだしておりません。すませてからまたこちらに伺いましょう」と言って、僧都は堂に上っていった。 光君が悩ましい気持ちを抱えていると、小雨が降ってきて、冷たい山風も吹きはじめる。滝つぼの水嵩(みずかさ)も増して、水音も高く聞こえる。少し眠たそうな読経の声がとぎれとぎれに聞こえてくるのが心に染みて、場所が場所だけに、無関心な人でも何かしら神妙な気持ちにもなるだろう。まして光君はあれこれと考えることが多く、まんじりともできない。夕べのお勤めと僧都は言っていたけれど、夜もずいぶん更けてきた。
奥の部屋でも、まだだれか起きている様子が聞こえてくる。数珠(じゅず)が脇息(きょうそく)に触れて鳴る音がかすかにし、ものやさしい衣擦(きぬず)れの音もして、光君はその上品な音に聞き入る。その音がそんなに遠くはないので、立てめぐらしてある屛風(びょうぶ)の中ほどを少し引き開け、光君は扇を鳴らして人を呼ぶ。奥の人たちはこんな時間に思いもよらぬという様子ながら、聞こえないふりはできないと思ったのか、だれかがいざり出てくるようである。少し下がり、
「あら、聞き間違えかしら」と不審そうに言うのを聞いて、 「仏のお導きは、暗い中でもけっして間違いのないはずですのに」と光君はささやいた。 その声がじつに若々しく、また気高いので、どんなふうに話していいのか決まり悪く思いながら、「どのようなご案内をいたせばよろしいものやら、わかりかねますが……」と女房は困惑している。 ■なんて大胆なことを 「なるほど、だしぬけに何を、と不審に思うのももっともですが──
初草(はつくさ)の若葉のうへを見つるより旅寝の袖(そで)も露ぞかわかぬ (初草の若葉のようなかわいらしいあの方を見かけてから、旅寝の衣の袖も恋しさの涙の露に濡(ぬ)れて、乾くことがないのです) お取り次ぎくださいませんか」と君は伝えた。それを聞いた女房は、 「そのようなことを伺って理解できるような方はここにはいらっしゃらないと、ご存じなのではございませんか。いったいどなたにお取り次ぎいたしましょう」と答えるが、