前兆は2度の「M8級大地震」だった…歴史上“最新”の「富士山大噴火」の地獄絵図 「黒雲が空一面を覆い、蹴鞠ほどの火山岩が降り注いだ」
大地震の余震は大爆発の年まで
余震も長く続いた。 〈亥年まで5年間、揺れ止むことがなかった〉(『静岡県史』) 亥年とは宝永4年。つまり富士山大爆発の年まで余震が続いたのである。そして、大噴火の49日前の10月4日、今度は元禄の大地震を上回るマグニチュード8.4の地震が発生した。震源は紀州熊野灘。地震は山陽から甲州・信州にまで及んだ。死者およそ3万人との記録が残っている。富士浅間本宮社僧乗蓮院隠居の飽休庵の書いたものだ。 〈立って歩く事も出来ず、這ってもすぐに転んでしまい、匐っても転々とする始末であった。こんな状況であるので家の外に避難する事も出来ず、そのうち家が傾き、軒庇(のきびさし)にあった屋根石も落ちかかる有り様であった。各所に地割れが生じ、陥没箇所も見られ、異常な水が湧くなど「前代未聞の地震」であった〉(『静岡県史』「自然災害史」より) そんな前代未聞の地震があった後、小さな地震が頻発していた。 「11月22日には10回ほど大きな地震があり、夜も小さな揺れが続き、23日の午前8時と午前10時に大きな地麗があったといいます」(富士山資料館・井上輝夫主幹)
ついに大噴火
2度目の地震の直後、ついに富士山は大爆発を起こしたのだった。 「この1万年の中で富士山は100回以上の噴火が起こっているが、空高く噴き上がるほどの大噴火は3、4例しかない。その1つが宝永噴火で、非常に大規儀なものです」 と語るのは、東大名誉教授で富士山ハザードマップ検討委員会委員長の荒牧重雄氏だが、先の井上主幹はその模様をこう解説する。 「噴火口は、富士山東側の現在の5合目あたり。標高にして2500メートルくらいのところから、大きな黒雲が立ち込め『火石』がおびただしく落下し噴火が始まったのです。古文書に『火石車軸のごとく降り申す』とあるので、ただ上から飛んでくるだけではなく、熱い大きな石がゴロゴロと転がってきたということでしょう。『茶釜ほどの大きさ』のものが転がるのだから、それは恐ろしいものでしょう」