【89歳の美容家・小林照子さんの人生、そして贈る言葉⑦】1958年、コーセー入社。「現場での経験が大きな力に!」
最終面接まで残ったのが30人。そして私は、みごと合格者6人に入ることができました。のちに聞いた話ですが、合格の理由はその無邪気な明るさと笑顔だったそうです。 こうして、私は『小林コーセー』のちの『(株)コーセー』に入社。1958年9月、私が23歳のときです」
“肌”に触れること(=触覚)は言葉よりもストレートに心に響く
「無事に入社を果たし、私は美容指導員になりました。美容指導員は美容部員を教育する立場ですが、入社して2年間は現場を知るために、一人の美容部員として地方回りをすることになりました。 当時の化粧品会社は、自社の商品を売るために特約店制度があり、全国にある特約店で定期的に実演販売を行っていました。私の担当は山口県でした。東京から夜行列車で現地に入り、県内にある25軒の特約店を1日1店舗回ります。移動は電車やバスを使い、宿を転々として約1カ月の出張中、休みはまったくありませんでした。 出向いた特約店では1日で何人もメイクをします。スケジュール的にはかなりハードでしたが、私には芝居のメイクを学ぶという目標があります。そんな大変さよりも、現場で人の肌に触れてメイクアップをする喜びに夢中になりました」 当時のメイクは欠点を修正するのが主流だったと小林さん。 「お手本とするメイク方法に沿って、肌はこの色、眉の形はこれ、アイカラーや口紅も指定の色を使い、理想とする美人顔に近づけるように仕上げます。私はいつもその考えに不満を持っていました。人の顔には必ずよいところがあります。その魅力を生かしたメイクをするべきだと。 眉毛の形、アイシャドウの色や入れ方で人の顔は大きく変わります。 例えば、かわいらしい顔立ちをしているのなら、それを生かしたメイクがあるはず。その思いで、持ち前の笑顔を振りまいて、一人一人その人の顔を生かすメイクを丁寧に行いました。それが評判となり、私の担当したエリアの売り上げはどんどん上がっていきました。 私はもともと化粧品を売ることにまったく興味はなかったのですが、結果的に私の評価は上がりました。一方でほかの同期たちは、仕事の過酷さや、『私は売り子になる気はない』といった理由で次々にやめていき、結局2年後に残ったのは私一人でした」 現場で確信を持ったことがあったそう。それは皮膚という臓器はすごい力を持っているということ。 「肌に触れることで、思いが言葉よりもストレートに相手の心に響き、互いの距離を縮めてくれるのです。 実際に接したお客さまは、驚くほど心を開いてくださいます。夫のこと、子どものこと、嫁姑の話など、悩み事などを話し出すのです。もちろん、私はお話を伺って相槌を打つだけで、アドバイスなどはできません。ただ、丁寧に顔をマッサージしてメイクをして差し上げるだけなのですが…」 少しずつ絆が築かれたことで、販売数を伸ばすことができたのだ。