開業からの変化が激しい「波瀾万丈」の路線3選 元祖本格LRT路線は77年を経て「元のさや」に
だが、その後に浅野総一郎らによる、いわゆる「浅野埋立」が開始されると状況が一変する。鶴見・川崎沿岸部を大規模に埋め立て、工業地帯化するという同事業は、1913年に着工。埋め立てが完了したエリアから順に、浅野セメント、日本鋼管、旭硝子といった企業が次々と進出し、工場の建設に着手した。 こうして新たに操業を開始した工場への通勤需要などを見込み、京浜電鉄は海岸電軌という子会社を設立。第一次大戦後の反動不況や関東大震災などの影響を受けつつも、1925年10月までに鶴見の總持寺―大師間(約9.5km)を全通させた。
しかし、この海岸電軌は、後発で路線を敷設した浅野財閥系の鶴見臨港鉄道(現・JR鶴見線)と路線の主要部分(鶴見―浜川崎付近)が競合したことなどから営業が振るわず、1930年3月に鶴見臨港鉄道に買収された後、1937年12月に廃止された。 ところが、太平洋戦争が勃発すると、川崎臨海部には多数の軍需工場があるにもかかわらず、とくに大師方面の工場は、「通勤する従業員が川崎駅からバスで1時間、大師線利用で大師駅から徒歩で40分を要し」(『市営交通40年のあゆみ』川崎市交通局)、生産増強に大きな支障を来す事態となっていた。
そこで戦時統制により京浜電鉄などを合併していた東京急行電鉄(大東急)と川崎市は、それぞれに臨海部への路線計画を描いた。 川崎市は、川崎駅前から臨海工業地域を経由して川崎大師駅に至る市電建設計画を立案(当初はさらに大師線を買収し、市電のみで完全な環状線にする計画だった)。一方、東急も独自の大師線延伸計画を立案したため、一部区間が競願となった。そこで運輸通信省で審理した結果、川崎駅前から西回りで桜本までを川崎市、川崎大師駅から東回りで桜本までを東急が建設するよう調整がなされた。
■今より全然長かった終戦直後の大師線 こうして東急は1945年1月に桜本までの大師線延伸を完了。川崎市も1945年12月に桜本まで市電を竣工させ、両路線が桜本で顔を合わせることとなった。桜本まで大師線が延伸されていたというのは、今となっては驚きである。 戦後は、大師線・川崎市電を3線軌条化し、浜川崎駅から臨海部方面への国鉄貨物線の乗り入れによる貨物輸送を実施。1952年1月には、川崎市が港湾貨物の陸上輸送力強化の観点から大師線の塩浜―池上新田―桜本間を買収し、市電に組み込んだため、大師線の路線は再び後退することになった(京急川崎―塩浜間)。
さらに、1964年3月に貨物需要の増大から塩浜操駅(現・川崎貨物駅)が開業すると、その敷地と路線がかぶったため、小島新田―塩浜間が休止(正式廃止は1970年11月)され、京急川崎―小島新田間の現路線が確定した。このように時代のニーズに合わせ、路線が延びたり縮んだりしたという路線も珍しいのではないか。
森川 天喜 :旅行・鉄道作家、ジャーナリスト