開業からの変化が激しい「波瀾万丈」の路線3選 元祖本格LRT路線は77年を経て「元のさや」に
富山港線は事業主体が民間から国に移管され、再び民間へと戻った事例だが、その逆パターン(国→民間→国)を歩んだ路線もある。北海道炭礦鉄道である。 岩見沢の北東に位置する幌内炭鉱(当初は炭田)の石炭を輸送するために、北海道開拓使(北海道の開拓のため明治初期に設置された官庁名)は、1882年までに幌内(現・三笠市)―札幌―手宮(現・小樽市)を結ぶ官営幌内鉄道を開業させた。この路線で使用された蒸気機関車「弁慶号」が、埼玉県さいたま市の鉄道博物館に展示されているのをご存知の方も多いだろう。
同鉄道は、1882年の開拓使廃止に伴い工部省に移管。その後、1886年に新設された北海道庁に移管された後、1889年に、開拓使の役人で薩摩出身の堀基(もとい)や財界の重鎮・渋沢栄一らが発起人となって設立した民営の北海道炭礦鉄道に払い下げられた。同社は歌志内、空知太、室蘭、夕張などへ順次、路線を延伸させるなどしたが、1906年10月に全線が国有化されている。これは同年3月に公布された鉄道国有法に基づく措置である。
■民間に譲渡、たった17年で国が再買収 この鉄道国有法によって、1906年から1907年にかけて全17私鉄が国有化されたが、北海道炭礦鉄道は、甲武鉄道(現・中央本線)、日本鉄道(現・東北本線、常磐線など)、山陽鉄道(現・山陽本線)などと並ぶ「主要幹線」として、1906年中に優先的に買収された。民間に事業譲渡して路線延伸など投資を行わせ、わずか17年後に再び国が買い戻すという、かなり強引な鉄道政策だったといえる。
この北海道炭礦鉄道の路線中、とくに興味深いのが夕張線だ。1888年、夕張で最初の石炭の鉱脈が発見され、炭鉱が開鉱すると、1892年11月に追分―紅葉山(現・新夕張)―夕張間の路線を開業。先行開業していた現・室蘭本線の支線扱いだった。 夕張線は、ずっと後年の1981年10月に石勝線(南千歳―新得間)が全通すると、新夕張(紅葉山から改称)―夕張間が石勝線の夕張支線となった。夕張支線は2019年3月末に廃止されたが、その過程で当時の鈴木直道夕張市長(現・北海道知事)主導の下、一般的なケースとは逆に自治体(夕張市)側からJR北海道に廃線を申し入れ、新たな交通モデル構築にJR北海道の協力を求めるという「攻めの廃線」を展開したのは、周知の通りである。