秀吉を激怒させた小田氏治の「執着」
■上杉家、佐竹家、北条家を相手にした攻防 氏治は、佐竹家、上杉家、北条家と同盟先を頻繁に変えながら、小田城を含めた勢力圏を守るために戦っていきます。 氏治は、これまで敵対することも多かった佐竹家と共同して、北条家の力を背景にした結城家と戦い、小田城を奪われてしまいます。しかし、常陸国へ影響力を持ちたい北条家と和解して小田城を奪還しています。 さらに今度は、佐竹家から攻撃を受けて小田城を奪われてしまいますが、家臣の力によって再び奪回に成功しています。 上杉謙信が小田原城へ侵攻すると、これに協力するなどして上杉方として行動していましたが、北条家の誘いを受けると北条方に加わり、佐竹家に対抗するようになります。 その佐竹家が今度は謙信に出陣を要請し、山王堂(さんのうどう)の戦いで氏治は大敗し、再び小田城を失います。 1565年に宿敵であった佐竹義昭が亡くなると、その混乱の隙をついて小田城を奪い返していますが、再び謙信の侵攻を受け、小田城はまたもや落城してしまいます。氏治は、武田信玄に救援を求めるなどしていましたが、謙信の軍門に降ることを選択し、城壁の修復をしないなどの条件の元で、小田城の返還を受けています。 1573年には、佐竹家臣の太田資正(おおたすけまさ)の奇襲によって、また小田城を奪われます。これはすぐに回復しますが、その後は佐竹家との小田城をめぐる攻防を繰り返していきます。 ■氏治の強い「執着」が改易をまねく 1573年に手這坂(てばいざか)の戦いで佐竹家に敗れ小田城を失い、相次いで他の城も失うと、小田家は非常に苦しい状況を迎えます。氏治は佐竹家への対抗策として、子の友治を人質として相模国に送り、北条家との繋がりを深めています。そして、佐竹家の常陸国統一を阻止したい北条家と利害が一致し、助力を得て小田城の奪回を目指します。 これまで小田城を何度失っても、その都度奪還できていたのは、氏治が古くからの家柄であることも関係していますが、一門や家臣、領民からの信望を得ていたからです。 また、上杉家や北条家などの名門の力を借りつつも、夜襲などの用兵に優れていたため、何度も城を攻略できていたと言われています。 ただし、小田城への「執着」が強すぎたのか、この時は関東地方を取り巻く状況の大きな変化を見過ごしてしまいます。敵対する佐竹家や結城家が、中央の豊臣政権と誼(よしみ)を通じていく中で、氏治は北条家への依存を強めていたのです。 そして、目先の利益を放棄してでも、豊臣政権による小田原征伐へと参陣する諸侯が続出する中、氏治は豊臣方の一員である佐竹氏からの小田城奪還に拘り続けてしまいます。 最終的に、小田原征伐後にその「執着」による行動を理由として、氏治は秀吉から改易を命じられ、小田城を奪還する機会を失うことになります。 ついに氏治は小田城を諦め、御家存続を優先し、結城秀康(ゆうきひでやす)に仕えて越前国へと移りました。 ■アイデンティティへの「執着」を手放す難しさ 氏治は、小田城を何度も奪われる脆弱な武将ではなく、何度も奪い返えせるだけの人望と実力に加え、絶対に諦めない「執着」を持っていました。 小田城主というアイデンティティへの「執着」が、秀吉の怒りを買って改易を招き、結果的に諸侯としての地位も失ってしまいます。 現代でも、組織の中において、自分の部署や地位、立場に「執着」することで成果を挙げてきたものの、環境の変化を読み切れずに拘りを捨てきれなかった事で、すべてを失ってしまう例は少なくありません。 もし、氏治も小田城を一旦諦め、津軽家のように佐竹家を出し抜くように小田原征伐に参陣できていれば、諸侯として存続できていたかもしれません。 ちなみに、氏治が「執着」した小田城は佐竹家の所領に組み込まれていましたが、関ヶ原の戦い後の秋田転封の際に、廃城にされています。
森岡 健司