栗山英樹流~ビジネスに生きる世界一の組織活性術
輝かしい実績もコーチ経験もなかった栗山だが、引退から22年後、日本ハムの監督に。そこで栗山はあるやり方を貫く。日本ハム時代、そしてWBCでもコーチを務めた東京ヤクルトスワローズ・城石憲之二軍総合コーチは言う。 「栗山さんは『何とかしてくれ』『打ってくれ』『抑えてくれ』とかはない。僕らコーチは『何とか打ってくれ』と願望が出てしまう。栗山さんは『この選手ならできる』と、そこは信じきる」 信じきることが選手のモチベーションを高め、持っている力を最大限、引き出すことにつながる。栗山はそう考えているのだ。実際、日本ハムでは周囲の予想を覆し、強敵と渡り合い日本一にも輝いた。
栗山は今、東京に暮らしながら2拠点生活を送っている。そのひとつ北海道・栗山町では一日警察署長に就任。一歩、町に出れば、町民たちとはまるで長年の友達のようだ。 地元となった北海道だけではない。行く先々で人々の心を惹きつける。
千葉・幕張の「イオンモール幕張新都心」で行われたウォーキングのイベントでは、眼鏡店「Zoff」の前にヌートバーの等身大ポスターを発見。絶好の撮影ポイントと見るや、「子どもたちも一緒に撮ろう」と呼び集めた。サービス精神満点だ。
「100年練習しても無理だな」~テスト生から世界一の監督へ
名前が同じという縁で栗山町の観光大使を引き受けた栗山。2002年には私財を投じて「栗の樹ファーム」(コロナを機に休館中)を作った。 一角に立つログハウスには、栗山のお宝コレクションが。イチロー、松井秀喜ら名選手が実際に使っていた野球道具が展示されており、直接、触ることもできる。野球ファンに無料開放したのだ。
壁一面には栗山自らアメリカで買い集めた野球人形のコレクション約200点が。今では手に入らない希少品も多いと言う。ヤンキース時代の松井秀喜やドジャース時代の野茂英雄のフィギュアも。 「僕がいなくなって何十年かしたら、『こういう時代があった』とみんなが喜んでくれるかなと思って」(栗山) 東京・小平市に生まれた栗山は、小学校で野球に夢中になった。高校は都内の強豪、創価高校に進学。キャプテンも務め、プロを目指した。しかし、将来を心配した両親が猛反対。それなら教師になろうと、国立の東京学芸大学で教員免許まで取得した。だが、「このまま野球を辞めたら一生、後悔すると思って。最後まで誰かに「ダメだ」と言ってほしかったというのもありました」。 学芸大学ではスラッガーとして鳴らしたが、ドラフトで声はかからず、ヤクルトの入団テストを受験。奇跡的に受かり、テスト生としてプロ入りする。しかし、入団した栗山はいきなりうちのめされる。 「プロの練習が始まってからは『なんてことをしちゃったんだ』という感じです。あんなに人生で後悔したことはない。あまりにも他の選手とレベルが違いすぎて、100年練習しても無理というぐらい差があった。だから全然楽しくない。普通、しばらくは楽しいじゃないですか、プロ野球選手になれたら」(栗山) 入団後、めまいに襲われる病気、メニエール病を発症したこともあり、1軍になかなか定着できない。結局、実働わずか7年で引退した。 「そういうのがトラウマなので、次はちゃんと一人前の仕事ができるようにやらなきゃと思って選手を辞めました」(栗山) 引退後はスポーツキャスターとして野球に携わり続けた。