絶滅の危機に瀕した秋田犬を守れ! 戦後日本の犬事情と保存活動
現在放送中のNHK朝の連続テレビ小説『虎に翼』では、戦争で失われたものと、1から新たに仕切り直していく社会の様子が如実に描かれている。では、犬の分野ではどうだったのだろうか? 今回は、戦後日本における人と犬の物語をお届けする。 ■戦争で途絶えかけた秋田犬の血を繋ぐ NHKの朝ドラ『虎に翼』が、女性の間で大評判になっている。テレビドラマには珍しく、法制度を新しく作っていく過程が描かれていて、何もかも仕切り直しになった戦後日本の様子がよくわかる。 仕切り直しはあらゆる分野に及んだ。犬の世界も例外ではない。太平洋戦争中、犬を飼うのは非国民とされ、献納や供出によって多くの犬が撲殺されたのである。早くから絶滅がささやかれていた日本犬の被害は特にはなはだしかった。 昭和3年(1928年)には、絶滅を危惧した有志が日本犬保存活動を立ち上げた。そして戦争と並走しつつも、やっと道筋が見えてきた時に戦局が悪化。天然記念物に指定されていたにもかかわらず、多くが食糧難と供出によって命を落としたのである。 戦争が終わってようやく平和が訪れたものの、犬がどれだけ生き残っているか日本犬関係者は心配した。人間すら生きるのに必死だった中で、かつて名犬と謳われた犬も行方不明になっていた。 大型犬である秋田犬は食糧難の直撃を受けた。供出も重なり、戦争を生き抜いた秋田犬は十数頭だったと言われている。ひそかに飼い続けた人の苦労も、並大抵ではなかった。 食糧難は敗戦後も続いた。秋田犬の飼育者で、獣医師だった小笠原圭一の回想によると「戦中戦後と、秋田犬は大型犬であるにもかかわらず、ろくな食事が与えられませんでした(中略) よくぞ生き延びたものと思います。繁殖力が低下して、交配しても仔犬が生まれなかった」( 『日本犬 血統を守るたたかい』吉田悦子) 昭和3年の、日本犬保存会創立時からの会員だった野山由吉は、飼育していた三頭の秋田犬のうち、一頭だけがかろうじて戦争を生き延びた。そこで敗戦後、交配相手を探すため大館市を訪れた。 しかし、秋田犬の本場である大館にも、犬はほとんどいなかったそうだ。「大館も犬の危機でした」と後に回顧している(日本犬保存会会誌『日本犬』昭和33年/1958年12月号) この惨憺たる状況に関係者は落胆し、復活の望みも持てないでいた。その秋田犬に光明が差したのである。東北地方に進駐してきた米軍将校の中に犬好きがいて、秋田犬を飼いたいと言ってきたのだ。 秋田犬は昭和12年(1937年)、来日したヘレン・ケラーに送られている。ヘレン・ケラーは乳児の時に聴覚視力を失い、話力も身につけられなかったが、ハーバード大学にまで進んだ有名な社会活動家である。 当時すでに、忠犬ハチ公の名はアメリカにまで届いていた。渋谷のハチ公像建設にあたっては、アメリカからも募金が寄せられている。そのアメリカと4年後に戦争をするなんて、誰も想像していなかった。 ヘレン・ケラーも来日以前から、秋田犬を知っていた可能性が高い。秋田県で講演した際に子犬を欲しいと告げ、もらい受けて連れ帰った。このことはアメリカでニュースになったから、進駐してきた米軍将校は秋田犬のことを知っていたのだろう。 将校は「秋田犬が欲しい」と県庁に依頼してきた。GHQ(連合国軍最高司令部)が日本社会の頂点に君臨していた時代である。県は急いで秋田犬関係者に連絡した。関係者は驚きつつ、需要が生まれそうなことを喜んだ。これで堂々と犬を探し、飼うことができる。 しかし、ここに大問題が発生した。米軍兵士に渡せるような犬がいるかどうかだ。何しろ、秋田犬は絶滅の危機に瀕していたのである。だが幸い、必死になって探してみると、いくつかのルートで犬が生き残っていたのだ。たとえば山奥の飯場や鉱山など、比較的食糧があって人目につかない場所に預けられた犬がいた。 また鹿角(かづの)の旧家、渡辺全次雄(ぜんじお)らは時の大信田警察署長に頼み込み、4頭の犬を戦争中も種犬として飼育し続ける許可を得た。その血統から、秋田犬復活の一翼を担う一ノ関ゴマ号が誕生する。 同じ血統の橘号は、戦争中に生まれて間もなく東京に行き、羽田の石山政治のもとで育てられていた。だが、食糧難や周囲からの白眼視などで飼いきれず、世田谷の藤岡御代四(みよじ)に託したのである。兄弟にあたる荒鷲号も藤岡のもとにやってきた。 藤岡はこれらの犬を人目を避け、隠して飼い続けた。藤岡のところに犬が集まってきたのは、警察官だったからだと思われる。本来は供出を促す立場だから、藤岡宅は死角だったのだ。 しかし、そんな藤岡も近所の人々から「警察官だから、この非常時に犬を飼い続けられるのだろう」と非難されるようになる。藤岡もとうとう飼いきれなくなって、知人に預けた。このように各地を転々としながら、計十数頭の犬が何とか生きていたのだ。 最高権力者だった在日米軍が関心を持ったことで、富裕層や土地の名士たちも秋田犬に注目し始めたのである。昭和50年代の全盛期まで、秋田犬の飼育者はこの層だった。しかし敗戦後は、肝心の秋田犬がいなかった。当時は今のように情報網が発達していなかったから、生き残った犬についての情報もなかった。全ては後からわかったことである。 そのため、どこかにいい犬がいないか探しまわりつつ、生き残った数少ない秋田犬と、それらしい大型犬との交配を繰り返す中から、再び秋田犬を再建させていくことになる。 だが大正時代に、強い闘犬を作ろうとして入れた洋犬の血はなかなか抜けず、耳の立たない犬も多かった。またブームに乗って、いい加減な犬を売りつける業者も後を立たなかった。 こうして秋田犬は戦後日本犬の復活を牽引し、昭和50年代に全盛期を迎える。しかし以後、都市化やマンションの増加などによる居住環境の変化によって、飼育頭数は激減していく。 世界的な地名度の上昇や人気とは裏腹に、国内の秋田犬は絶滅の危機にある。テレビやSNSで持ち上げられても、実際は国外の飼育者によって支えられているのが実情だ。昨今は洋犬小型が全盛で、大型犬のみならず中型犬も街中で見なくなった。散歩が必要な犬自体が減っているのである。 東北のマタギ犬を源流に持つ秋田犬は、戦前戦中戦後と、多くの人々が渾身の努力で血をつないできた貴重な犬種だ。大きな体に困ったような顔を持つ秋田犬には、日本の現代史が刻まれている。日本で見られなくなったら寂しい。
川西玲子