駿河メイ、デビュー6周年を迎え先輩たちの教えを胸にプロレス道を振り返る「私もこんな入場がしてみたい」
「みんなに見られて華やかな道を歩くのって、どんな気持ちなんだろうと思ったのがきっかけ」
我闘雲舞所属の女子プロレスラー・駿河メイが、8月31日に控える後楽園ホール大会、そして自身のデビュー6周年を迎え、その軌跡と心境を語った。 【動画】駿河メイからメッセージ「まだ何かは言えないんだけどチャンピオンになってからプロレス好きの皆んなに伝えたいことが出来ましたよ」 初めて新日本プロレスの試合を観た時の衝撃が、今も鮮明に残っているというメイ。 入場シーンに魅了され、プロレスラーを志すようになったが、最初はリングの厳しさや異文化コミュニケーションに苦しみながらも、成長を遂げた。 海外遠征の経験や先輩選手からの影響が現在のスタイルを形成し、8月31日後楽園ホールでのメインイベントで師匠さくらえみ戦への意欲を見せた。 【インタビュー後編】 ①デビュー6周年を振返って印象的なできごと ――ここからは、デビュー6周年というのを振り返ってもらいたいんですけど。そもそも、一番最初プロレスをどこから好きになったんですか。 新日本プロレスです。 ――誰か特定の選手がいらっしゃったんですか。 ロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンが、好きでしたね。というのも、一番初めにプロレスの映像を見たのが、真夜中にやっている新日本プロレスの『ワールドプロレスリング』でその時、G1クライマックスの途中経過が流されていて、EVIL選手が、パイプ椅子を相手の首にかけて、それをカキーンってホームランされているのを初めて見た。それが初めてのプロレスです。 ――うわ、すごいみたいな。 それは反則じゃない?と思って、プロレス好きの友達にこれって反則じゃないのって連絡したのが、のめり込むきっかけです。 ――そこから、もうだいぶプロレスを好きになったんですか。 一番好きだったのは、入場シーンですね。やはり新日本プロレスって、もうキラキラしてるじゃないすか、照明がバチバチにたかかれて、花道も長くて。みんなガウンとか、それぞれのカラフルなコスチュームを着て入場するので、もうその姿に、初めはヒーローみたいだなと思って。入場シーンを見るためだけに、大会を見ていたと言っても過言じゃないくらい。 ――そこから、我闘雲舞を知ることになってという感じなんですか。 そうですね。そこから。 ――でも見るのとやるのとだと動機って、だいぶ変わってくるんじゃないかなと思うんですけど。 はい。確かに。でも、プロレスラーになりたいと思ったのが、もう同じで、私もこんな入場がしてみたいって。 ――まず入場だったんですね。 はい、こんなキラキラ、みんなに見られて華やかな道を歩くのって、どんな気持ちなんだろうと思ったのがきっかけ。 ――痛そうだなとか、怖そうだなっていうのは、あんまりイメージはそこまではなかったんですか。 怖いというよりも、どんな練習をしたら、こんな動きができるようになるんだろうっていう興味の方が大きかったですね。 ――実際、我闘雲舞を知って、そこで、そのプロレス教室というところで、1回行ってみようとなったんですね。 なりましたね。いろんな団体探して、リングしか知らない中で、急にマットのプロレスがYouTubeで上がってきて ――何これみたいな感じですか? 何これって、こんなのできるのって思ったら、想像以上に軽やかで迫力のあるプロレスをそこでされていたのに驚きました。窓枠から飛んだり、壁を使ったり。 ――ちょっとびっくりしますよね。 人間はこんなことできるんだと思って。でも、ここだったら自分もちょっと挑戦できるかもと。 ――他の団体だったら、もしかしたら合わなかった可能性もありますが、ちょうど良かったんでしょうね。 ガトムの親近感、入るイメージがしやすかったですね。 ――でも6年、紆余曲折いろいろあったと思いますけど、ちょっと印象深い出来事みたいなのを思い起こすとどうでしょうか? 印象深い出来事はデビュー当初の思い出が、強くって。その当時って、海外から市ヶ谷に参戦しに来る選手がとても多かったんです。タイ、シンガポールだとか。その選手と関わったのは、すごく印象深く思っています。相手は英語も喋れない、日本語も喋れない、私も英語も喋れないので、タイ語も喋れないけど、さくらさんから、「今日事務所に行ったら、タイのゴーレムっていうゴツい髭モジャの選手がいるから、ちょっとお茶出しておいて」って言われて。自分はビクビクしながら事務所の扉を開けたら、ぽつんと大きい外国人選手が座っていて、ハローって、何とか異文化コミュニケーションをとらせていただいたのが印象的ですね。 ――言葉は通じないけど、そのコミュニケーションやジェスチャーも踏まえながら、やるのって上手そうな気がするんですけど。 いや、でも何も通じないんです(笑)自分が英語ができなかったから、その時は勉強しておけばよかったって思うところなんですけど。そこから鍛えられたような気がします。でもあの体験がなかったら、それこそ今海外に行ったときだとか、初めましての方と会う時に、もっと人見知りが出てただろうなと思います。 ――コミュニケーション能力は高いと思いますけど、やはり異文化コミュニケーションという部分では、なかなか大変でしたか? その時、上京したてなので、東京自体に慣れていない。だけど、さくらさんが急に朝ぎっくり腰になっちゃって、ピンチヒッターで、プロレスリングHEAT-UPに出なければいけない時があったんですよ。でも一人じゃなくて、「他に助っ人、海外選手を二人、水道橋駅に用意してるから、そこにメイちゃんピックアップしに行って高島平の会場に向かってね」と言われた時に、ええ~東京わからないのにって。海外選手ともあったことないのにって。 ――それは、めちゃくちゃ無茶ぶりですね。 もう泣きそうになりながら水道橋駅に向かって ――すごい、そこは、めちゃくちゃ根性ありますよね。 やらざるを得ないじゃないですか。無理って言ったら、そこでもうカードは流れてしまうし、全て崩れてしまうので。 ――電車移動でもコミュニケーションをとらないと駄目だから大変ですよね。 何を喋ったかも、全く記憶にないんですけど、すごく覚えています。そういうのがとても多かったような気が。 ――そういうところからやっぱり成長してきたというとこなんですね。 そう考えたら、本当に泣くのを堪えながら、人前というか、今やれと言われたことをやってたいのが多かったなと。 ――NOというよりも、まずやってみようっていうところが、やっぱり元々おありだったって感じですか。 NOなんていうタイミングさえなかった(笑) ――それだけ、しょっちゅういろんなことが起こっていたと。 入団したその日に、PURE‐Jさんの後楽園ホール大会でチラシ配りを任されました。配ったこともないし、人前に立ったこともないし、でもこんな分厚いチラシ…全部配らなきゃいけないし。任せたわよ!って1人大海原に放り出されたのでもう半泣きになりながら、「すいません、我闘雲舞なんですけど、もらっていただけませんか。」って。 ――でも、今思うと、それはすごい体験ですね。 その当時、そのチラシをもらってくださって今も応援してくださっている方は、まだ覚えてらっしゃいます。当時の方が、「あの時頑張って配ってたよね」って。 ――そんな色んなことをやって到達した8年ぶりの我闘雲舞、後楽園大会。そういう努力がある意味、報われる時なのかなと思います。でも、一言で6年って言っても、やはり、いろいろそういう歴史がありますね。 あっという間だったなって思います。