江戸時代のウォーレン・バフェット?「相場の神様」本間宗久に学ぶこと
その父の死後、跡を継いだ二代目の光寿は病弱であった。光寿は自分の長男の光丘が成人するまでの間、弟の宗久にワンポイントリリーフを要請する。この間、光丘は家業の修業のために播州・姫路の商家へ丁稚奉公に出されていた。 店を任された宗久は、新潟屋の資金を使って米相場に手を出す。それまで延々と米相場の「エア取引」を重ねていただけに、向かうところ敵なしである。たちまち大儲けをなして、大いに新潟屋を拡大するのであるが、それは本間家が本来、目指すところではなかった。光丘が戻ってきて正式に3代目に就くと、宗久は家を追い出されてしまうのである。
もっとも宗久、内心では「しめしめ」と思っていたかもしれない。これで自由人となって、思う存分、取引ができる。ただし、江戸へ出て始めた米投機は失敗に終わり、宗久は破産してしまう。察するにこの挫折経験が、後年の「相場三昧伝」に昇華したのであろう。 宗久は酒田に戻って態勢を立て直し、今度は当時の江戸を上回る天下の台所、大坂に向かう。そこで連戦連勝となって、前述のとおり天下に名を馳せる。とはいえ、そこは多分に伝説の要素もあって、宗久が築いた巨万の富がその後、どうなったかなどはわかっていない。
ところが地元・酒田の人々にとって、偉かったのは3代目の本間光丘のほうであった。光丘は私財を投じて防砂林を造り、以後も本間家は代々、植林を続けていく。 秋田県から山形県にかけては日本海から吹く風が強いところで、今も多くの風力発電の風車が建っている。かつては海風が砂を運んできて、稲作に甚大な被害を与えていた。庄内平野が国内有数の穀倉地帯となったのは、まさに本間家の努力のお陰という見方もできる。 さらに光丘は、庄内藩の財政再建を任されて成功し、士分に取り立てられている。晩年には、米沢藩の上杉鷹山の改革を助けてもいる。宗久とは違い、こちらはとことん酒田にとどまって地元に尽くす人生であった。