江戸時代のウォーレン・バフェット?「相場の神様」本間宗久に学ぶこと
● 年中の内、両三度より外、商い致するところこれ無きものなり。 ――相場というものは1年に2~3回の仕掛けのチャンスしかないものである。 ■江戸時代の「ウォーレン・バフェット」だった? 要は、今日に残る「相場格言」のうちかなりの部分が、本書を源流としている。そして本間宗久は、単に勝ちまくっただけの相場師ではなく、以下のような観察を残した哲学者でもあった。いやもう、「江戸時代のウォーレン・バフェットさん」と言っても、過言ではないのではないだろうか。
● 米の高下は天声自然の理にて高下するものなれば、極めて上がる下がると定め難きものなり。この道不案内の人は迂闊にこの商いすべからず。 ――「米」の部分を、「株価」や「長期金利」や「為替」に置き換えてもまったく異和感がない。まさにマーケットとはそういうもの。ところが「この道不案内の人」による「迂闊な商い」が後を絶たない。 ● 足らぬものは余る、余るものは足らぬと申すことあり。 ――豊作の年はぜいたくに使うのでコメが足りなくなり、不作の年は大切に使うので余るということが繰り返された。相場はコメの作柄だけではなく、人の欲望にも左右されるのだ。
18世紀の江戸時代に、コメの先物取引市場が世界に先駆けて成立し、罫線などの手法も開発されていた、ということ自体が一種の奇跡であろう。そしてその時代に、現代に通じるような卓見を有する相場師がいたのは、まさに誇るべきことだと思うのである。 ■「いなかったことにされていた?」相場の神様 というわけで、現地の空き時間に酒田市の本間家旧本邸や本間美術館をせっせと訪れたのである。そこでまことに愕然としてしまったのだが、当地においては「相場の神様」本間宗久は、「いなかったこと」にされているのである。と、言うほどではないにしても、とにかく「本間宗久記念館」みたいなものが存在しないのである。
本間宗久は江戸時代の豪商というにとどまらず、わが国資本主義の黎明期における偉人の1人だと思うのだが、当地においてはどうもそのようには扱われていない。その理由を知るには、本間家の歴史をひも解いてみなければならない。 宗久は酒田の富豪「新潟屋」、初代・本間光本の三男として生まれる。若い頃から江戸に遊学して聞を広めるが、そこで米相場の面白さに取りつかれる。帰って父に事業としての米取引を進言するが、「商いの正道ではない」と却下されてしまう。