【Mummy-D×KOHEI JAPAN】大阪・泉州エリアの歴史を巡る! 古代の伝承から戦国の動乱まで時空を超えた旅へ
■岸和田のシンボルとして悠然とそびえる城 (by Mummy-D) 遠い目シンドローム、泉州の旅、最終目的地は岸和田城でありました。早朝に羽田を出発してから早9時間ほど。斜めの太陽が城下町を照らします。ここまで古道、古社を中心に散策して来ただけに(前編)白亜の天守と立派な石垣に目を奪われます。そーかあ、ここがあの、だんじり祭だの、映画『岸和田少年愚連隊』だので有名な岸和田かあ。もっと下町っぽい雰囲気を想像してたんだけど、来てみるとめっちゃ城下町風情。お城のスタッフの方に案内され、本丸に足を踏み入れました。 岸和田城は大阪と和歌山を結ぶ紀州街道の要衝として築かれた城で、織豊期における雑賀衆、根来衆との戦いの中心地にもなりました。古城に関しては諸説ありますが、現在の城郭が整備されたのは天正13年(1585)、豊臣秀吉の紀州征伐ののちに城主となった、小出秀政の入部以降のこと。慶長2年(1597)に五層の天守が築かれ、続く松平康重の時代に総構えと城下町の整備、寛永17年(1631)、徳川譜代の岡部宣勝(のぶかつ)が入城、以降岡部氏13代が岸和田藩を統治し、明治維新を迎えます。 岡部氏といえば戦国時代、今川、武田、徳川の狭間で命運を翻弄され続けた一族。宣勝はいち早く徳川に恭順した正綱の孫で、苛烈な年貢の取り立てを行なった松平氏に代わって相当な善政を敷いたんだそうな。やっぱさあ、苦労してる家系は違うやね。オレらもさあ…(遠い目)。宣勝公は三代家光からの信頼も厚く、その移封は南の紀州徳川家への目付の意味もあったと言われています。敵に備えたり、身内に備えたり、いつの世も為政者は大変なんですね。つくづく民草でよかったです。それにしても「その後x代続き、維新を迎える」藩主の家系って、必ず名君いる気がするんだけど、気のせいかなあ? 名作庭家、重森三玲による八陣の庭を横目に天守へ。小出秀政による五層天守は落雷で焼失、現在のものは戦後に三層で再建された模擬天守ですが、街のシンボルとしてとってもバエています。んでも、資料が残っていないからということなんだろうけど、当初の五層天守が残っていたらなあ…高さ30m、広島城や岡山城より高かったらしいっす!江戸時代は今よりもっと海岸線に至近、大阪湾から見るその姿はさぞや勇壮なことだったでありましょう。北に堺、大阪城、西に大阪湾、南に和歌山を望む展望デッキに立つと、なぜここに城が必要だったのか実感できると思います。遠い目。。。って、まあ、そもそも遠い目をする場所なんですけどね(笑) 古地図のままに二の丸を囲むコの字型のお堀を見に城外へ。ここ岸和田城で一番グッドルッキングかも。水面に映る石垣と傾きかけた春の空とのコントラストが美しいです。はて、コの字?…コの字といえば、コの字型のカウンターのある大衆居酒屋は大抵間違いないんだよなあ。店主とも隣のお客さんとも付かず離れずでさあ、「マスター、ホッピー中(なか)一つ!」って、これ関西の人わかんないだろうなあ…うん、そろそろ一献の時間かもしれぬ。紀州街道を遡って、我らも宴に備えようぞ! ■風情ある街並みを楽しみつつゆるりと歩く紀州街道 (by Mummy-D) コの字のカウンター…じゃなかったお堀の並びには岸和田だんじり会館もあったりして、旅情を誘うのですがそれにも増して、府道を一歩入ったところに広がる旧紀州街道の風情よ!泉州前編で紹介した信達(しんだち)宿のあたりとはまた違って華やいでいて、そこが岡部の殿様のお膝元であることを否応なく感じさせます。これ岸和田だけじゃなくて日本の財産だかんね? だんじり引っ張る時気ーつけてやー!なんつって、わたくし的にはきしわだ自然資料館があるところの不自然なクランク、これがまた古地図と完璧に一致していて(おそらく城下の防御上のものでしょう)、密かにコーフンしてしまいました。ええ、重症だってわかってます。遠い目。。。 一献パートのため駅前商店街を歩くと演歌のポスターが並ぶ昔ながらのCDショップが。しかし店頭に置かれているのは売れ筋のアーティストではなく、だんじり祭のDVD!(笑)流石っす岸和田。ああ、なんと濃ゆい南大阪の旅であったか。ありがとう泉州、ありがとうきじまりゅうたくん、改めて、センシューベリーマッチ!