「サブカルとJ-POP」1980年代編、テクノとバンド、パンク、漫才ブーム、アングラ
インディーズの流れが定着した80年代
高木ブー伝説 / 筋肉少女帯 1987年発売、筋肉少女帯の「高木ブー伝説」。詞曲は当時は大槻モヨコさん。大槻ケンヂさんですね。発売されたのがインディーズですね。ナゴムレコード。マネジメントから抗議がきまして、メジャーからは出せなくて後に本人の了解ということで、メジャーからのデビューになりました。1969年にURCというレコード会社が発足したという話を2週目でしました。アンダーグラウンド・レコード・クラブ。きっかけが「イムジン河」が発売中止になった。商業音楽のレコード会社では自分たちのやりたい音楽は形にできないということで、URCが始まったわけですが、そういうインディーズの流れというのが80年代に定着したんですね。たくさんインディーズが生まれましたね。 ナゴムレコードというのは、1983年に発足して主催が有頂天のケラさん。音楽と小劇場運動と言うんでしょうかね。下北沢あたりの小劇場でやっている自主劇団が音楽をやるようになった、そういう流れでしょうね。音楽と小劇場が一緒になった。筋肉少女帯とかたまとか、人生、これは後の電気グルーヴなんですね。電気グルーヴの話は来週出てくるかなという感じではありますが、大槻ケンヂさんは作家としても活動してます。先日のPANTAさんの追悼コンサートに大槻ケンヂさんが出て、「世界革命戦争宣言」をやっていました。びっくりしましたが、似合っていました。 インディーズの流れではBUCK-TICKが太陽レコードからデビューしたとか、YOSHIKIさんが自分たち、X JAPANのためにエクスタシーレコードを作った。そういうインディーズで始まって、メジャー・デビューの際に争奪戦になったのがこのバンドでした。 リンダ リンダ / THE BLUE HEARTS 1987年5月に発売になりました、THE BLUE HEARTSのメジャー・デビュー・シングル「リンダ リンダ」。インディーズのときにデビューしたシングルは『人にやさしく』だったのですが、あの曲の中には当時は放送にそぐわないと言われていた言葉もあったので、メジャーでは出せなかったんですね。THE BLUE HEARTSがメジャーと契約するときに、条件をつけたという話がありましたね。歌詞を直さない。だったら、君のところでやるよ。そのレコード会社がメルダック。電気会社系でしたね。1980年代後半のバンドブームは数がたくさんデビューしたということだけではなくて、バンドそれぞれの意識というのがやっぱりそれまでと違いましたね。社会性があった、社会性のあるバンドが多かった。 80年代後半のサブカルにはチャリティという要素が加わってくるんですね。1984年にイギリスのバンドエイドがあって、1985年にアメリカでUSA for Africa「We Are The World」。イギリスはエチオピア、アメリカはアフリカの飢餓と難民救済、貧困救済というテーマを掲げたムーブメントがメジャーで起きる。それに敏感に反応したのが、インディーズで活動している人たちでしたし、メジャーとインディーズのいろいろな対称的な反応というのも、80年代後半には目にすることになりました。次の人はそういう曲をインディーズで発売したメジャー中のメジャーの人です。80年代サブカルを語るときの最重要人物。この曲です。 警告どおり計画どおり / 佐野元春 1988年8月に発売になりました、佐野元春さんの「警告どおり 計画どおり」。チェルノブイリの原発事故のときのメディアの対応について思ったことをこんなふうに歌にしました。これはインディーズで出しました。THE BLUE HEARTS も1988年のチェルノブイリの後にチェルノブイリという曲を歌っているのですが、これは当然インディーズですね。メルダックは電気会社の系統でしたからね、出せるわけがない。そういう最大の例が1988年のRCサクセションの「カバーズ」でしたね。東芝からは出せない。そういう反核の流れというのが、80年代サブカルの中の1つテーマとしてあった。アトミック・カフェというコンサートが始まりました。1984年のアトミック・カフェでステージから飛び降りたのが尾崎豊さんでしたね。 今、この歌を歌った佐野元春さんは80年代最大のサブカルヒーローと言っていいでしょうね。デビューのときの衝撃がそうでした。「アンジェリーナ」の歌の作り方。それから「ガラスのジェネレーション」のあの世代感。「VISITORS」で取り込んだニューヨークのヒップホップ。そして、「カフェ・ボヘミア」の中ではグローバリズム、ボヘミアンというテーマを持ち込んでいました。さらにプライベート雑誌『THIS』も作って、自分のレーベル、エムズ・ファクトリーというのも発足させた。1987年に2つのコンサートがありました。1つはビートチャイルド、そして広島ピースコンサート。広島ピースコンサートはその後10回続くのですが、ビートチャイルドというコンサートの名付け親は佐野さんでしたからね。この2つのコンサートに出たのが次の人でした。