泥縄式から一転し、半導体分野への巨額の先行投資を決断 稲盛和夫は京セラの事業変革をどう成し遂げたか?
■ 半導体パッケージの開発と量産体制の整備 京セラの半導体分野でのポジションをさらに揺るぎないものにした製品がある。 1969年8月、米国のAMIセミコンダクター(AMI)から電卓に使うセラミック多層ICパッケージ100万個の発注を受けた。総額は8億円、創業以来最大の受注額であり、当時年商20億円に過ぎなかった京セラが、一気に成長発展を期すことができる商談であった。 米国現地法人社長から受注打診の国際電話が、めったにない休暇を取り、家族一同で福井県に海水浴に行っていた稲盛の下に入った。国際電話がいまだ珍しく、大騒動になった旅館の電話を取った稲盛は、技術的に困難が予想され、多大な設備投資を必要とするにもかかわらず、間髪を入れず受注を了承した。 天の配剤か、実はその頃、京セラは鹿児島県知事からの度重なる要請を受け、鹿児島県川内市(現薩摩川内市)に、広大な工場用地を取得していた。また単層のセラミックICパッケージの生産をすでに新工場で開始していた。稲盛は早速、AMI向け多層製品の量産ラインの準備に着手した。 しかし、セラミック多層ICパッケージの量産技術は、いまだ確立されていなかった。当時京セラが生産していた、他のセラミック製品と比べ、セラミック多層ICパッケージは、はるかに高度で複雑な製造技術を必要とし、工程が長かった。一つの工程の難問をクリアしても、次の工程で行き詰まるなど、ハードルは果てしなく続いた。 セラミック多層ICパッケージの技術自体が、高度かつ多様な技術の集合体であり、発生する課題も複合的な要因から成り立っていた。一つの要因をつぶしても、全体の解決にならず、眼前の現象に取り組みながら、全工程を俯瞰した統合的問題解決を必要とした。 当時稲盛は、毎週のように京都から夜行列車で鹿児島川内に足を運んだ。工場に着くやいなやすぐに現場に向かい、社員とともに課題解決に当たった。 しかし、歩留まりはゼロ。良品が全く取れない時期が、1969年のみならず翌1970年も続いた。その頃、鹿児島市内の実家を訪れるたび、「今月も何千万円の赤字だ」とつぶやく稲盛の姿を見て、両親は心の底から心配したという。 AMIからの矢のような催促に脅かされながら、毎月、膨大な損失を計上し続けた。現場のリーダーは耐えきれず、次々に交代した。しかし、後任者は前任者に勝る努力を重ね、挑戦は続けられた。その頃、疲弊した現場に立った稲盛はいつも、皆を励ますように「セラミック多層ICパッケージで世界を制覇しよう。世界一のセラミックICパッケージメーカーになろう」と鼓舞し続けたという。 想像を絶する努力が実り、1970年12月頃にはようやく歩留まりが改善し、採算が取れるようになってきた。