泥縄式から一転し、半導体分野への巨額の先行投資を決断 稲盛和夫は京セラの事業変革をどう成し遂げたか?
■ 米国の半導体産業にとって、京セラはいかに不可欠となったか 1947年の米国ベル研究所のトランジスタの発明を受け、1957年にフェアチャイルドが設立され、半導体産業が産声を上げた。その後、この分野の先駆者である同社の創業メンバーたちが次々に独立を果たし、インテル、アドバンスト・マイクロ・デバイセズ(AMD)など現在の米半導体産業を代表する企業が設立され、それら新興企業が位置したカリフォルニア州シリコンバレーに半導体産業が花開いていた。 京セラは創業3年目に当たる1961年から、当時トランジスタを量産していたフェアチャイルドと、ヘッダーと呼ばれる絶縁製品で、商社経由で取引があった。また稲盛は、1962年には早くも米国に出張し、自社主導の海外展開の先鞭もつけていた。従業員100名、売上1億円ほどの中小企業に過ぎなかったが、知名度ではなく実力を認めてくれる米国市場に活路を求めたのであった。 京セラは1969年、フェアチャイルドから全く新しいコンセプトのセラミック多層パッケージの開発を受注した。25ミリ角、厚さ0.6ミリのセラミック基板に高精細な配線層を形成し、これを2層重ねて92個のホールを通じて電気的に接続するというもので、従来のICパッケージの概念を一新するものであった。 いくら高度な半導体を作っても、それを保護し、電気的に接続するパッケージがなければ機能しない。稲盛は、集積化が進む半導体にとって、この新しいコンセプトに基づく多層ICパッケージは不可欠になると確信し、3カ月という短期での試作依頼を受け、開発チームを組織し、昼夜兼行、開発に努めた。 結果、数々の試行錯誤と技術的ブレークスルーを経て、何とか約束通りに試作品を完成させることができた。 残念ながら、この製品はフェアチャイルドの方針変更により量産には至らなかったが、京セラにセラミック多層ICパッケージに関する技術的蓄積ができたとともに、フェアチャイルドのトップをはじめ技術者、購買担当者に至るまで、彼らからの信頼をさらに揺るぎないものにした。 絆の基盤は、圧倒的な顧客第一主義にあった。京セラの米現地営業は、稲盛が「サーバントたれ」と教えた通り、献身的なカスタマーサービスに努めた。例えば、フェアチャイルド技術者からの夕刻の問い合わせを、現地営業が深夜までかかって整理し、日本の海外営業部門に連絡する。 時差のため、ちょうど朝を迎えていた京セラの営業は、すぐさま製造と調整し、ときに重要な案件は稲盛に連絡を取り、結果を米国に回答した。すると、米現地営業は問い合わせから一夜明けた朝一番に、フェアチャイルドに打ち返しすることができた。日本の競合会社はおろか米国のコンペティターのいずれよりも迅速かつ誠実に、顧客の要望に応えていったのである。 このような京セラの企業姿勢、京セラ従業員の働く姿勢を理解していたフェアチャイルドの技術者たちが、フェアチャイルドから独立をした後も、京セラへの絶対的な信頼感を基に、セラミックICパッケージを京セラに発注し続けてくれたのである。シリコンバレーの米国半導体産業にとって、京セラは欠くことができないパートナーとして存在していた。