本を読むときに「絶対にやってはいけない」最悪の読み方があった…じつは「アタマの良い人」がやっている「ほんとうの本の読み方」
先行きが見えない「答えのない時代」を生きる私たちにとって、「自分の頭で考える力」は必須です。でも、何をどのように考えれば良いのか、どのように勉強すれば良いのか、具体的な方法がわからない人も多いでしょう。 【写真】本を読むうえで「絶対にやってはいけない」最悪の読み方 気鋭の哲学者・山野弘樹氏が、自分の頭で考えて学びを深めるための方法=「独学の思考法」をわかりやすく解説します。 ※本記事は山野弘樹『独学の思考法』(講談社現代新書)から抜粋・編集したものです。
考えること=「走ること」
さて、ショーペンハウアーは、私たちが読んでいる本は砂の上に残った「足跡」(129頁)の如きものであるとも述べています。この表現は、先ほどの習字の比喩に近いものがあります。つまり、先人たちは、自分の足でその道を通った(自分自身でものを考えた)からこそ、そこに足跡(書籍)を残すことができたのです。 そして、私はこの「本」=「足跡」という比喩を手がかりに、「考えること」とは、まさに「走ること」であると理解します(ショーペンハウアー自身は「砂に残った歩行者の足跡」と述べているので、彼の議論の中に「走る」という要素が強調されているわけではないという点は、指摘しておく必要があるでしょう)。 このような考え方を踏まえると、「単に本の内容をインプットする」という読書の仕方は、実際には何を行っていることになるでしょうか? それは「足跡に沿ってのんびり歩くだけの行為」に他なりません。 目の前に道があって、そこに誰かの足跡があって、その足跡をたどるだけの行為。これはこれで、ある種の観光名所を楽しんだり、息抜きのウォーキングにはなったりするかもしれませんが、それだけでは一向に走る練習にはならないでしょう。「考える力」を身につけるためには、自分自身で走るべきルートを選択し、そのルートの吟味と自らのフォームの反省を絶えず行うという労苦を積み重ねる必要があるのです。 ここに関しても、先ほどの「習字」の例と同様の事態を指摘することができるでしょう。すなわち、所定の足跡をたどるだけの思考を続けてしまうと、私たちは次第に他人に考えさせられてしまうようになるのです。 他人の残した足跡だけを追いかけるという思考の様態は、極めて従属的な性格を有しているものです。これは、知識によって思考が支配されている状態であると言えます。こうした状況になってしまっている人の頭を「他人の思想の運動場」(128頁)と表現したショーペンハウアーの洞察は、まさに慧眼であると言えるでしょう。