本を読むときに「絶対にやってはいけない」最悪の読み方があった…じつは「アタマの良い人」がやっている「ほんとうの本の読み方」
「足跡」と共に思索するということ
さて、私たちは「考えること=走ること」、「足跡=本」という比喩を手がかりに、さらに「考える」という行為の本質について考えてみたいと思います。 大切なのは自分で走ることであり、地面に残された足跡をたどることではない──このように言われてしまうと、もしかしたら、「もう本を読む必要はないのか」と思われる読者も出てきてしまうかもしれません。 しかし、そういうことではありません。本は、私たちにとって必要な存在であり続けます。なぜなら、先人の「足跡」を全く顧みないままに走り出しても、私たちは道なき道を前に途方に暮れてしまうからです。 例えば、子育てに悩んでいる人が、いきなり「教育とは何か?」ということを考えることは難しいでしょう。同じように、「今のままの社会ではいけない」と思っている人が、いきなり「正義とは何か?」ということを考えるのも難しいと思います。自分の足で走ると言っても、「まず、どこから走り出せば良いのか?(=何から考え始めれば良いのか?)」ということを考えることは、非常に難しいことなのです。 したがって、「考える力」を身につけるトレーニングを有効的に行うためには、「足跡」(本)と共に、一緒に走る(思索する)ことが必要です。本書の内容を先取りしつつ、このことを言い換えるならば、「問い」を持ちながら読書をする姿勢こそが求められているのです。 もちろん、その過程のどこかで、先人とは別のコースを走り始めることになると思われます。具体的には、本を読みながら「本当にそうだろうか?」、「別の考え方があるんじゃないか?」と感じたときが、その分かれ道です。そこからは、今までとは別の足跡のコースをたどる(読む本を変える)かもしれないし、今まで誰も通ったことのない道を走る(自分で新しく文章を書く)かもしれません。 いずれにせよ、先人の足跡を参考にしつつ「自分の足で走る」ことこそが重要なのです。 なお、ここで私があえて(「歩く」ではなく)「走る」という比喩を大事にしている理由は、「思考力は長い月日をかけて少しずつ訓練されるものである」という信念を私が持っているからです。 「考える」という営みは、想像以上に「知的体力」を必要とします。「考え続ける」という行為は、本当に頭が痛くなるような営みなのです(それはちょうど、走り続けているとすぐに脚が痛くなるのと同じです)。例えば、「相手の話をじっと聞く」ということですら、真剣に行うとけっこう疲れてくると思います。何かを真剣に思考するためには、私たちは必ず日々の訓練を通して「知的体力」を身につけなければならないのです。 また、実際に走る際に、自分に合わないフォームで走っていると、記録が出にくかったり、脚を怪我してしまったりすることがあります。そういうわけで、私たちはより綺麗なフォームを学ぶために、大選手やコーチの「フォーム(走り方)」を真似したりしますが、哲学書を読む理由の一つも、これに近いものがあります。 すなわち、私たちは哲学書を読むことで、一つの「思考の型(考え方)」を学ぶことができる、というのがそれです。こうした理由から、私は「走る」という比喩表現を用いながら、「考える」という営みの特質を探究しているのです。 繰り返し強調するのですが、私たちは、知識を獲得するプロセスと、自分の頭でものを考えるプロセスを分けて考えなければなりません。言い換えれば、「知識」を収集することが本質的なのではなく、そうした「知識」を生み出す「思索」を自ら行うことこそが、人間の知性にとって最も本質的なのです。 ですが、現在の日本の学校教育は、知識を獲得するプロセスに終始してしまっている場合がほとんどであり、さらには膨大な知識が詰め込まれた人を過剰に称賛する風潮さえあるということは、これまで以上に指摘される必要があるでしょう。 さらに連載記事<アタマの良い人が実践している、意外と知られてない「思考力を高める方法」>では、地頭を鍛える方法について解説しています。ぜひご覧ください。
山野 弘樹(哲学研究者)