「1年経つのが早い」と感じる人は要注意…時間術を妄信する人が気づいていない致命的な"落とし穴"
■Step3 三つの根源的な恐怖を受け入れよう 漠然とした不安の正体をどう見極めるか 私は、時間を浪費させる最大級の原因が、三つあると考えています。それらは「死」「孤独」「責任」という、人間が簡単には直視できない「人生における三つの理(ことわり)」です。三つの理という現実に向き合うのを避けようとして、無意識のうちに自分を欺くことが人生を誤らせ、時間を無駄遣いさせているのです。 私たち人間は、誰しも「人生をどのように送ればいいのかわからない」といった、漠然とした不安を抱えながら生きています。実は、そうした根源的な不安は、三つの人生の理に由来するのです。三つの人生の理は、人間が生まれながらに負っている宿命ともいえ、何人も避けることはできません。 ところが、目に見えず、自分で確かめることができないので、底知れぬ不安が常に人生につきまとうのです。では、三つの人生の理が、なぜ不安を生み出してしまうのかを説明しましょう。私は、不安のメカニズムを「見える化」するだけでも、漠然とした不安はかなり軽減できると考えています。 一つ目の「死」はすべての人間にとって、いつか必ず訪れる絶対的な真実。しかも、人類が太古から「不老長寿の妙薬」を求めてやまなかったように、すべての人間は、本質的に「死から逃れたい」と願っています。それで、「自分が死ぬ」という現実を突きつけられると、恐怖や絶望のあまり、パニックに陥ったりするわけです。 それゆえ、人間は、「自分がいつか死ぬ」と頭ではわかっていながら、その真実から無意識のうちに目を逸らせようとします。「死ぬのはまだ遠い先のこと」と勝手に考えたり、周りの人が死んでしまっても「自分は関係ない」と思い込もうとしたりします。精神の安定を保つための本能、一種の自己防衛システムともいえるでしょう。 高齢になったり、重病になったりして、死を意識しなければならない状況になっても、意図的に仕事や趣味に没頭したりして、頭の中から死の概念をシャットアウトして、死の恐怖から逃れようとするでしょう。一時の気休めにしかならないことが、わかっているにもかかわらずです。 例えば、生命保険会社が、高齢の契約者の「終活」をサポートしようと「エンディングノート」を配布しても、高齢者が嫌がってノートにデータを記入せず、契約者の死亡後、遺族が遺産を把握できなくて困ったというケースが続出しているようです。 死に向き合うことは、人生に残された未来の時間=余命と向き合うことでもあります。死は、「人生の最終ゴール」でもありますが、就職、結婚、出産、子どもの就学といった、ライフイベントのスケジュールが固定化していると、短期間で次々に到来する人生の節目=小さなゴールに目を向けていれば、死を意識しなくてすむので、あまり不安にはなりません。ところが、結婚や出産をしなくてもいい時代になったので、かえって死が間近になり、不安感が増しているのが現状です。 価値観の多様化で人生の責任が重くなった 二つ目の人間の「孤独」とは、どういうことでしょうか。人間は根本的には孤独な存在。生まれてくるときも、死ぬときも独りぼっちです。「交通事故や集団自殺で、同じ瞬間に死ぬケースもある」と思われるかもしれませんが、自分の死の体験を他者と共有することはできません。 ところが、その真実と矛盾するかのように、人間は、孤独をことのほか恐れる生物でもあります。というのも、人類は約20万年の歴史のほとんどを、群れで役割分担をしながら生きてきたからです。そのため、人間はコミュニティに所属していないと、「生存できない=死」と恐怖を感じるように、本能にプログラミングされているのでしょう。だから、常に友人やパートナーを求め、寂しさを紛らわせようとしたりするわけです。 三つ目の「責任」とは、何を意味するのでしょうか。現在の私たちは、自分の人生を自分で選ぶ自由を手に入れています。しかし、自分一人で人生を決めたのだから、うまくいっても、いかなくても、その結果も「自分一人」で受け入れなければなりません。つまり、自由には「責任」がともない、人間にとって大きな苦痛でもあるのです。 フランスの哲学者であるジャン=ポール・サルトルが「人間は自由の刑に処せられている」と言ったのは、そのことを指しているわけです。そこで、せっかく手に入れた自由を放棄し、誰か他人に人生を決めてもらうことで、責任を回避しようとする人も、現実には少なくありません。 ドイツの心理学者であるエーリッヒ・フロムは、「人間は生きている意味を見出せなくなると、他人からの承認が欲しくなる」とも述べています。「承認欲求」です。つまり、財産や名誉、社会的地位などによって社会的評価を得ようとしたり、SNSで「いいね!」の評価を求めたりすることで、人生の責任を他者に転嫁しているわけです。 前述のように、昭和や平成の時代は、「有名大学を卒業して大企業で働く」「女性は結婚して家庭に入る」といった、人生の「成功モデル」が決められていて、何も考えずに「親や学校の先生の言うとおり」に、その路線を踏襲していれば、社会的評価が得られました。ある意味では、自分で人生の責任を取らなくてすんだわけです。 ところが、社会の価値観が多様化し、既存の成功モデルが通用しなくなった現在では、人生を自己決定しなければならない機会が増えました。その分、人生に対する自己責任も、重くなっているといえるでしょう。 死・孤独・責任からの逃避こそが時間の浪費 生成AIの登場など、人類の科学技術は目覚ましく発達しています。一方、「人間の道具」とは裏腹に、人間自体は、約20万年前から進化していません。残念ながら、現在の最新技術を駆使しても、三つの人生の理から派生する不安を取り除くことは難しいでしょう。 それらの不安から逃れるため、「ゲームにのめり込む」「お酒やタバコに依存する」といった回避行動に走るのは、時間の浪費の最たるものなのでやめましょう。 例えば、末期がんを宣告された人が、迫りくる死を忘れるために、「仕事に打ち込んでいた」としましょう。本人は「立つ鳥跡を濁さずというように、後任に迷惑をかけないためだよ」「家族のために、少しでもお金を残したいからだよ」などと、もっともらしい理由で行動を正当化するでしょう。しかし、「家族との時間を大切にする」といった行動を取ったほうが、いい場合もあるわけです。「そのままで最期に後悔しないのか」と、自問自答するべきでしょう。 では、三つの人生の理を直視し、時間の浪費を食い止めるには、どうすればいいのでしょうか。精神医学では「認知行動療法」と言っていますが、まずは自分の不安や恐怖を認識してありのまま受け入れ、そうした事実を自分で客観視してみましょう。そして、「死」「孤独」「責任」について、自分が抱いている現在の率直なイメージを、ノートに書き出してみるといいでしょう。そのうえで、不安があってもブレない自分の真の価値観を確立し、人生の目的を達成するための行動に移ることが重要です。