孫文の「大アジア主義演説」から100年…今日へ語りかけるもの
ちなみに、中野正剛、それに頭山満、宮崎滔天ら九州、福岡にゆかりのある者たちは亡命中国人ら支援した。中野正剛の銅像は、ここRKB毎日放送から近い福岡市中央区の鳥飼八幡宮境内に建つ。 だが、日本は中国、そしてアジアに対する強硬路線へと突き進む。孫文は1925年3月、北京で亡くなった。この大アジア主義演説からわずか4か月後のことだ。この演説は、孫文自身の支援者もたくさんいた日本に対する「遺言」だったような気がする。 アジアが一丸となって帝国主義に対抗しようという「大アジア主義演説」。だが、日本における「大アジア主義」の定義は次第に変質していく。大勢は日本の中国支配、アジア支配を主にした東亜新秩序の建設、大東亜共栄圏建設という名の野望に形を変えてしまった。政府・軍部の大陸侵略策を正当化するイデオロギーになり、日中戦争、アジア太平洋戦争へと日本は突入する。 ■米国主導に組み込まれアジア諸国と絆が弱い日本 孫文の提唱した「大アジア主義」の今日的な意味はどこにあるだろうか? 「西洋の覇道に対抗して」という演説の下りは、演説から100年=1世紀が経過した今日、国際情勢が大きく変化して、意味を持たない。 ただ、孫文が日本に求めた「アジアの国々、人々への向き合い方」はどうだろうか。その後、ゆがんでしまった「大アジア主義」に対する反省を経ても、敗戦後80年が経ようとしても、アジアの国々が抱く日本に対する期待には十分、応えていないように思える。 当時、アジアにおいて、最も先進的だった日本、そして戦争に負けたのに、ずっと経済力でずっと先頭を走ってきた日本。100年前に孫文が指摘したように「日本こそ、率先し、その模範になるべきだ」の言葉を、実践してきただろうか。 米国主導の世界秩序に、組み込まれてきたことを、アジアの国々はどのように感じていたのだろうか。そして、その間に、急速に国力を高めた中国の影響力がアジアに着実に浸透している。それは日本とアジア諸国との絆の弱さを示していないだろうか。