孫文の「大アジア主義演説」から100年…今日へ語りかけるもの
「大アジア主義」をひと言で表現すると、「国は違っていても、アジアの諸民族の連帯・団結によって、西洋列強のアジア侵略に対抗しよう。新しいアジアを築こう」という運動――。演説内容を口語に直してみた。 “「あなた方、日本民族はすでに、欧米の覇道の文化を取り入れていますが、一方でアジアにおける王道文化の本質も持っているのであります」” 覇道と王道は儒教の概念だ。覇道は、武力や権謀によって支配・統治すること。覇権主義を指す。一方、王道とは君主が道徳、仁義に基づいて国を治めるという政治の道だ。当時、日露戦争でロシアに勝った日本は、アジアにおいて最も先進的。欧米の影響を大きく受けていたが、同時に日本人は「アジアにおける王道文化」、つまり道徳、仁義、人としてあるべき姿を本来、きちんと備えているはずだ――。孫文はそう訴えている。演説を続けよう。 “「今後、日本が世界文化の前途に対し、西洋の覇道の手先となるのか、あるいは東洋の王道の守り手となるのか。それは日本の国民が慎重に考慮すべきものなのです」” 「日本が、西洋の列強と同じように横暴に振る舞い、アジア各地で支配を広げていくことが正しいのか。それとも、東洋の道徳や仁義を元にした振る舞いをするのか。どちらを選ぶか、それは日本国民が決めることだ。答えは自ずとわかっていますよね」という問いかけだ。つまり、孫文は窮地にあった中国と日本の提携に期待を抱いたのだろう。 ■日本の中で変質した「大アジア主義」の定義 このころ、日本はすでに中国に進出していた。辛亥革命後の中国国内の混乱に乗じて欧米列強が中国に進出。日本も中国に対し、無理な要求を突き付けていた。1915年の「21カ条の要求」と呼ばれるものだ。これらの出来事によって、中国ではナショナリズムが燃え上がっていた。火を付けたのは、日本だったといえる。 日本政府の対中姿勢がそのようであっても、この演説を、当時の新聞、雑誌が大きく評価した。福岡市出身のジャーナリストで、のちに政治家になった中野正剛という人物がいた。中野も、孫文の演説に共感・共鳴した一人。彼は自分の著作の中で、「今の政府および政治家の中に、孫文に顔を合わせられる輩が一人でもいるか。いない」と政府批判を展開している。