ポーティスヘッドとベス・ギボンズを今こそ再考 幽玄を歌うカリスマの歩みと新境地
ポーティスヘッド(Portishead)のシンガー、ベス・ギボンズ(Beth Gibbons)が大注目のソロアルバム『Lives Outgrown』を携え、今夏のフジロックで初来日を果たす。90年代の憂鬱を体現し、後世のシーンに絶大な影響を与えたバンドの先進性、ギボンズが最新作でたどり着いた唯一無二の境地を、ライターの天井潤之介に総括してもらった。 【画像を見る】90年代のポーティスヘッド * ポーティスヘッドが最後(現時点で最新)のアルバム『Third』をリリースしたのが2008年。以来、2010年代に入っていくつか散発的に行われたライブ、あるいは昨年のライブ盤『Roseland NYC Live』の25周年リイシューを除けば、ポーティスヘッドが表立った活動から遠ざかって10年以上がたつ。しかし、にもかかわらず、ポーティスヘッドというグループに寄せられる関心や期待――その隠然たる存在感のようなものは、この間もまったく揺らぐことがなかったように思う。 そうしたなか2年前――ウクライナ支援のチャリティー・コンサートでポーティスヘッドが7年ぶりにライブを行ったその年、ケンドリック・ラマーのニュー・アルバム『Mr. Morale & the Big Steppers』にベス・ギボンズがフィーチャリングで参加することが伝えられて話題を集めたことが記憶に新しい。そして熱心なリスナーであれば、ポーティスヘッドが実質的な活動休止状態にあったこの間、とりわけアメリカのヒップホップ/ラップ・ミュージックのシーンにおいてかれらが支持や評価を集めてきたことはご存知だろう。ヴィンス・ステイプルズやスクールボーイ・Q、トラヴィス・スコット、チャイルディッシュ・ガンビーノ、スーサイドボーイズ、あるいはウィークエンドといったアーティストたちが自身の楽曲でたびたびポーティスヘッドをサンプリングし、そのサウンドやビートの大きなインスピレーションにしてきたことは知られている。また、イェことカニエ・ウェストもポーティスヘッドの信奉者であることを公言するひとりである(『Late Orchestration』は前出の『Roseland NYC Live』に倣って制作されたらしい)。90年代当時からティンバランドやミッシー・エリオット、オール・ダーティー・バスタード、RZA、アリーヤの楽曲でサンプリング・ソースとして使われていたポーティスヘッドの楽曲だが、いわゆるロックやポップのフィールドではなく、ましてや「トリップホップ」のフォロワー的なバンドでもなく、ラッパーやビート/トラック・メイカーにとってポーティスヘッドがリファレンスの対象だったという事実は、しかし、かれらの成り立ちを考えるときわめて象徴的に思える。 というのも、あらためて記すとポーティスヘッドとはそもそも、地元ブリストルのヒップホップのコミュニティが起点のひとつとなったグループだったからだ。80年代後半、ポーティスヘッドの創設者であるジェフ・バーロウはマッシヴ・アタックの母体となるDJ/サウンド・チーム、ワイルド・バンチの溜まり場だったコーチ・ハウス・スタジオで雑用係として働き始めたのをきっかけにブリストルの音楽シーンに関わるようになり、テープ・オペレーターやスタジオ・バンドを務める傍ら、マッシヴ・アタックのデビュー・アルバム『Blue Lines』(1991年)の制作に携わることになったのは知られた逸話だ。それが縁でネナ・チェリーのアルバム『Homebrew』(1992年)にもプロデューサーとして呼ばれたバーロウだったが、『Blue Lines』には同じくワイルド・バンチに出入りしていたトリッキーもデビュー前にラップを提供していて、後に「トリップホップ」の名の下にグループ化される3組が人脈的にも深い繋がりがあった事実は重要だ。そして、バーロウがコーチ・ハウス・スタジオでの仕事の空き時間を使って作り始めた曲が元になったのが、ポーティスヘッドのデビュー・アルバム『Dummy』(1994年)だった。 『Dummy』はヒップホップのレコードではない。ポーティスヘッドに「ラップ」はない。しかし、そのサウンドがサンプリングやスクラッチ、ループ・メイキングといった「ヒップホップ」の制作技法に多くを負っていたことは、マッシヴ・アタックやトリッキーはもちろん、当時「トリップホップ」と呼ばれた音楽において多くに見られる傾向だった。その背景には、70/80年代のパンク・ムーヴメントとカリブの移民文化が交差したブリストル特有のレゲエ/ダブやサウンドシステムのシーン(状況)があり、そんな“ブリストル・サウンド”の先駆だったワイルド・バンチが始めたブレイクビーツとオールド・ジャズのミックス、ソウルやリズム・アンド・ブルースとエレクトロニックの実験の延長に「トリップホップ」のマルチカルチュラルなスタイル、ひいてはポーティスヘッドもあったことは間違いない。 とりわけ「サンプリング」は、DJプレミアやエリック・B&ラキムに“師事”したヒップホップのドラム・プログラミングと共に、初期のポーティスヘッドのサウンドにおいて構成上の重要なアプローチだったと言える。「Glory Box」や「Strangers」で聴けるアイザック・ヘイズやウェザー・リポートのサンプル、あるいはエリック・バードンやスモーキー・ブルックスを引用したソウルやリズム・アンド・ブルースの音色は、ポーティスヘッドのサウンドを一貫して流れるメロウでビンテージなムードを演出する符牒の役割を果たし、それらはジャズ・ギタリストだったエイドリアン・アトリーのインストゥルメンタルと組み合わされ、さらにベス・ギボンズのボーカルが吹き込まれることで、マジー・スターやコクトー・ツインズのようなドリーム・ポップやオーブやシーフィールのようなアンビエントとも侵食し合うあの幽玄で艶かしく、オーガニックでありながらエレクトロニックな音楽は形作られていた。 加えて、そうしたトーン&マナーに窺える“クラシック”な音楽の嗜好は、映画『スパイ大作戦』の楽曲をサンプリングした「Sour Times」然り、ジョン・バリー(『007/ジェームズ・ボンド』シリーズの曲で知られる作曲家)を神だと信じ、エンニモ・モリコーネやバーナード・ハーマンによるスコアのコレクターを自負するバーロウの、50年代のホラー映画や60年代のスパイ映画に寄せる偏愛と相通じるものだった。ちなみに、ポーティスヘッドの最初の作品が、かれらが自ら音楽制作と監督まで務めたモノクロの短編映画『To Kill A Dead Man』だったのは象徴的だ。 それだけではない。バーロウとアトリーは、サポート・ドラマーのクライブ・ディーマー(レディオヘッド『A Moon Shaped Pool』にも参加)らサポートのミュージシャンと共にスタジオでジャムを録音し、レコードにプレスして、それをスタジオの床に並べてその上を歩いたりスケートボード替わりにしたりして傷をつけた(スクラッチ・ミックス)ものをサンプルとして使う、といったトリッキーなことまでしていた。「Numb」のブーミーなサブベースの隣で鳴るハモンド・オルガンや、「Roads」の胸を締め付けるようなローズ・ピアノやストリングスも、彼らが自分たちで一から作ったサンプルだった。そうしてヒップホップのプロデューサーがブレイクビーツをカットするように自分たちのサウンドを扱い、はたまた壊れたアンプを通すことでSoundCloudラップを先取りするような“濁った”耳触りさえ聞かせるポーティスヘッドのプロダクションは、いわゆる「バンド」とは言いがたく、エレクトロニック・プロジェクトとも言いがたいかれら独特のあり方を物語るようで興味深い。