月の名所としても知られる風光明媚な桂浜。空海、坂本龍馬、紀貫之のゆかりの地でもある高知県の灯台へ
昔から変わらぬ営みの軌跡
『土佐日記』の筆者・紀貫之は、国司として赴任していた土佐国府から、浦戸経由で都に海路で戻っているし、中世以降、畿内商人の一部や細川氏は、明国との貿易に浦戸や現在の鹿児島県坊津経由の南海航路を用いるようになる。 また浦戸には南北朝時代初頭から城が築かれ、ことに戦国武将・長宗我部元親は豊臣秀吉から土佐一国を安堵された際、この地に本拠を置いた。関ヶ原の戦いの後、新たな土佐の主となった山内一豊は現在の高知城築城に取り掛かり、やがて浦戸城は廃される。近年、陸路・空路の急激な発達により、高知を訪れる人はわたしたちがそうであったように高知市内中心部を起点に動くことが多い。だがほんの二、三十年前まで、高知港は大阪や東京からのフェリーの離発着場であり、高知と各地を結ぶ海の入り口だった。つまり現在、風光明媚な観光地として名を馳せる桂浜とその周辺は、高知きっての殷賑を極めた海の街だったのだ。 桂浜を守るようにそびえる龍王岬には、今日、海津見神社という古社が鎮座している。大綿津見神、つまり海の神様にして龍宮の主を祀る神社であり、青い海と朱塗りのお社、そして眼下の海に砕ける白い波のコントラストが美しい。 海神が古くよりこの地に祀られているとはすなわち、近隣の海を行き交う船がそれだけ多かった事実を―そしてこの一帯が海路として優れている事実を意味する。社会の変質によって人の動きが変わっても、昔から変わらぬ営みの軌跡は確実にどこかに刻まれているのだ。 海津見神社参拝を終えて進むうち、陽射しがふっと陰った。ほんの一瞬、遊歩道が藪椿の茂みの中をよぎったためだ。だが次の瞬間、またも視界は大きく開け、ずんぐりと愛らしい高知灯台が行く手にいきなり現れた。
古しえから託された希望の灯り
灯台の入り口には、紺色の制服をまとった高知海上保安部の奥山正さんがお待ちくださっていた。だが互いに挨拶を交わしながらも、わたしの視線は早くも奥山さんの背後にそびえる灯台に奪われつつあった。 高知灯台は、現在地から桂浜を隔てた龍頭崎に明治十六年に建てられた県営灯台が前身。第二次世界大戦後に海上保安庁に移管され、昭和四十六年、改装を経て今の位置に移築されたという。 さかのぼれば龍頭崎には、十七世紀後半から常夜の大灯籠が設置され、油と灯明で以て、一帯を行く船に岬の位置を告げていたという。ならば今日の高知灯台は、近代化以前からの海の安全の名残を強く受け継ぐ施設というわけだ。 長方形の機械室とずんぐりとした円柱型の灯台の背後には、見事に晴れた青空と猛々しいほどの生命力をみなぎらせた南国の森。圧倒的なエネルギーと歴史を感じさせる光景に見惚れるわたしに、奥山さんが至極あっさりと、「はい、じゃあ登りますか」と仰った。 案内されるままに灯台に踏み入れば、目の前には螺旋階段。階段は途中でハシゴに変わり、その先にあるのは灯台の心臓部であるレンズ室。それにしてもハシゴを登るなんて、どれだけぶりだろうと思いながら、頭から突っ込むようにレンズ室へと上がる。 次の瞬間、うわあ! と心の底からの驚きの声が出た。 さして広くないレンズ室は、光の洪水だった。巨大なガラスがはめ込まれた窓からは一向に勢いの衰えぬ陽光が暴力的なまでになだれ込み、その果てに広がる空と海はあまりの明るさのせいで境目が霞んでいる。だが部屋の中央に金属の箱にはめ込まれて鎮座する巨大なレンズは、それらの光輝にも劣らぬ圧倒的なきらめきを放っており、まるで光と光が無音の戦いを繰り広げているかのようだ。 この灯台のレンズは、五秒間にひと光の間隔で輝き、その光は十九・五海里(約三十六キロ)先まで届くという。 「全国の灯台の中でこの間隔で光るのは、高知灯台だけというわけですか?」 「あくまでこの海域では、です。光り方のバリエーションはそんなに多くないので、同じ点灯間隔の灯台は、他の海域には当然存在します」 そううかがった瞬間、わたしは日本海や東北の海に面して建つ見知らぬ灯台を思った。高知灯台と同じ間隔で光り、遠く隔たった―しかし確かにつながった海の安全を守る灯台を思った。 それらの灯台は同じ役割を担うがゆえに、決して近づくことが許されない。それは人間には想像が出来ないほど孤独で、しかし何者にも真似できぬ尊い営為ではないか。