「学者は世間知らず」という批判にどこまで意味があるのか 学者の立場から学者の存在意義を捉え直す
そして、そうした道化師らは、宮廷の大事な意思決定に影響を及ぼすこともあったそうだ。そんなふざけたやつを意思決定に参加させるのは非常識なようにも思えるが、実は理にかなっている部分もある。 つまり、当時の王様は絶対的な存在であったがゆえに、なかなか外から意見を言いづらい構造にあった。権威を保ち政権を安定させるためには、王様にそうそう恥をかかせてはいけない。そんな状況で、周りの人たちがわかっていても言えないことや今さら言えないことを、宮廷道化師は横槍を入れるように茶化しながらも本質をつく役割を求められていたのである。
ある意味で特権階級とも言えるがすべてが許されたわけではなく、言いすぎによってクビになったり、処刑されることもしばしばあったそうだ。 ■批判があるとしても、発言し続ける 私としては、こうした宮廷道化師の存在が、(現代の)学者の存在と重なって見える。つまり、宮廷道化師と学者は、「①事実について深く洞察している」「②空気を読まない」「③身分をわきまえる」という点で共通しているといえるのだ。 学者は、「事実」についてより深く洞察し、解明する人々である。そして多くの人が疑問に思わないところで立ち止まって考察するがゆえに、時に愚鈍に見えるかもしれない。
また、利害関係や私利を無視してでも、意見を述べることが求められる。そして、周りが言えないことや黙っておけばいいのにと思うことに対して、空気を読まずに口に出すがゆえに、世間を知らないように見えるかもしれない。 そして、ここは意見が分かれるかもしれないが、学者はしょせん口を出すだけなのであって、実権も地位ももたない存在である。学者に与えられた地位は絶対的なものではなく、口が達者であるにすぎないことをわきまえていないといけない。でも現代では、そうしたつつましい人は、時に侮られてしかるべき存在に見えるかもしれない。
学者という存在は、そういうものなのである。何かを発信すれば心ないバッシングを受ける社会で、お互いに無関心であることが最適解になりつつある社会で、立場をわきまえつつも、空気を読まずに、本質を突くという役割を学者は果たさなければならない。 それが現代の主権者である国民に対して、学者ができる貢献のひとつの有力な在り方だと考えている。
舟津 昌平 :経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師