「学者は世間知らず」という批判にどこまで意味があるのか 学者の立場から学者の存在意義を捉え直す
ただ、これらに共通しているのは、私の著作の中身への批判というより属性攻撃だということである。属性攻撃は、ネガティブな感情を表現する方法としては「優れて」いる。本来、自らの抱いた感情を明確な言葉で表現し、かつ他者からの同意を得ることは、それなりの訓練を経ないとできない程度には、難しい。ただ、属性攻撃であれば、攻撃性を明確に表現できるうえ、同じように感じた人から同意を得ることも難しくはない。 学者が書いた本が気に食わなかったとき、その中身を丁寧に批判したり、何がおかしくてどうすべきだったのか自分の言葉で紡ぎ、そのうえ同意を得る、という手順をすっ飛ばして、「世間知らず」だの属性攻撃してしまえば、簡単に精神的優位に立てる(ように思い込む)し、一定の賛同も得やすいだろう。
だが属性攻撃の意味は、それだけと言えば、それだけである。「世間知らず」という批判は、ふわっとした悪意を表現できても、議論を発展させるような論点を示すことは決してできてはいない。 もっともネットで過激な発信を行う人々は、他者を傷つけることが目的化している可能性もあるので、目的は果たしているかもしれない。ただ、拙著にひきつけて言っておくと、「Z世代」はそんな構造に確実に触れている。つまり、何か発信をした人が、匿名の人々から属性攻撃を受けるという場面に日々接している。
そういう悲惨な光景をみた若者が、リスクを取って発信しようと思えるだろうか。何か述べればすぐ誰かが属性で叩きに来る社会で、安全圏で引きこもろうとするのは当然である。 「最近の若者は自分を出さない」という懸念をよく聞く。それはおそらく事実で、そして構造的な原因は、周囲の大人がつくっているかもしれない。そんな話が気になるようなら、ぜひ拙著をご一読いただきたい。 ■学者は世間知らずに「見える」だけかもしれない
さて、話を戻すと、「学者は世間知らず」という批判が一定程度正しいとしても、学者に期待される役割ゆえに世間知らずに「見える」という側面もあるのではないだろうか。 学者の社会的な役割は、「宮廷道化師」に例えることができる。宮廷道化師という耳慣れない言葉について知りたければ、「TED」というプレゼン動画で解説されているので、詳しくはそちらを見てほしいが、簡潔に説明すると以下のとおりである。 中世ヨーロッパでは、王族がエンターテイナーとして道化師を雇うことがあった。たとえば、ヘンリー2世に仕えた宮廷道化師・ローランドは、王や権力者の前で、ジャンプをしながら口笛とおならを同時にするという(実にくだらない)パフォーマンスを行っていたという記録が残っている。