「学者は世間知らず」という批判にどこまで意味があるのか 学者の立場から学者の存在意義を捉え直す
学士会YELL主催によるミニプレゼン会にて、関西学院大学・加藤雅俊氏、立命館大学・中原翔氏、東京大学・舟津昌平氏3名による出版記念シンポジウムが行われた。 本記事では、『Z世代化する社会』の著者・舟津昌平氏による講演をベースに、学者が果たすべき役割について解説する。 ■「世間知らず」という言葉の中身 「学者」という言葉に、どのようなイメージをお持ちだろうか。 そもそも学者という表現にはいくつかの意味が含まれる。「大学(研究機関)に勤めている人」を指すことが多かろうが、そういう人は多くの場合「研究者」でもあるし、「科学者」なこともあるし、あるいは「大学の先生」でもある。ミスリードな部分があるのを承知のうえで、とりあえず本稿では「学者」と呼んでおきたい(まったく余談だが、大学教員をすべて「教授」と呼ぶのは誤りである。会社員を部長と呼ぶようなものだ)。
さて、学者のイメージとして「世間知らず」を思いついた方もいらっしゃるのではないだろうか。学者は世間知らずなのだ、と。 本稿では、なぜ学者が「世間知らず」と評価されてしまうのかを、学者の立場からひもといていこうと思う。 まず、学者がそうした評価を受けてしまうのは、学者側も加担している部分がある。まったく同質的な人ばかりで構成されるアカデミアのコミュニティにこもりがちで、専門分野以外のことはまったく知らないし知る意味がないというスタンスをとっていても、学者として一定のポジションを築けてしまうことは否定できないからである。ダイバーシティが喧伝される現代において、学者の世界はいまだにホモソーシャルであることが多いのは否めない。
学者側が、その評価を得意に思っていることすらある。「象牙の塔」と言うように、俗世から隔絶された「特別な世界の住人」として振る舞うことをよしとしてきた人々も、過去にはいただろう。 そうした側面があるからか、拙著『Z世代化する社会』にも、こんなレビューが並ぶことがある。「世間知らずの学者が書いたもの」「ゆとり世代だから仕方ない」「東大の先生がこれでは世も末」……。ネットが氾濫する現代では、こういうお叱りを知らない方から受けることも珍しくはない。