1mm単位でコンセプトを追求 アトリエ小倉染芸の考える、東京手描友禅の魅力とは?
90年以上、3代の歴史を誇るアトリエ小倉染芸 特徴は品のある仕上がり
ーそうした東京手描友禅の歴史があるなかで、アトリエ小倉染芸はどのようにして事業を展開されてきたのでしょう? 事業を始めたのは祖父・小倉玉鳳です。90年以上前、創業当初は神田川の目の前に居を構えていたそうですが、戦争で焼けてしまい、現在の地に移転しました。 私が生まれる前に亡くなっており会ったことはないのですが、祖父は芸者の方に向けた友禅を手がけていたそうです。 これは私の憶測ですが祖父は展開的な飲兵衛で、宵越しの銭を持たないという方だったといいます。そうした背景から芸能の世界にも興味があったのかもしれません。 やがて2代目である私の父・貞右の代になると、今度はお茶をされている方へ向けた作品を創るようになりました。父は家を継ぐ前、緻密で細かい絵柄を描くのが特徴の京都の友禅の名家へ修行に出ており、その影響があったのだと思います。 父が2代目となったのち、バブル崩壊後は取引先との取引が途絶え苦しい時期もありましたが、百貨店さんとの取引を始めたことで持ち直し、今は私が3代目となって活動しています。 小倉染芸では、染料の色の良さと糸目の美しさを引き出す独自開発した渋黄色の糊を使っています。こうすることで染料と糸目、それぞれの素材の良さを引き出すことができるのです。 そうして素材の良さを生かしながら必要な絵柄だけをシンプルに描くことで、落ち着きの中に華やかさがある、品のある仕上がりとなります。 着る物と、着ていただく方が揃ってはじめて完璧な美しさとなるよう、着物や帯の柄は、極力無駄な部分をなくして引き算を心がけているのです。
「自分がデザインした物を売るのは楽しいぞ」原点にあるのは恩師の言葉
ー小倉様がアトリエ小倉染芸の仕事を始められたのはいつからなのでしょうか? 私が家に入ったのは27歳のころ、今から約20年前のことです。 私はデザインが好きでデザインの仕事に就きたいと考えており、前職は「スポーツに関わるデザインがしたい!」とスポーツ用品店で働いていました。 ただもともとはデザインというより、自分のセンスで仕事をしていきたかったというか、自分が必要とされる仕事がしたかったのです。 そうして高校生のころに服に関心を持つようになったことからデザインのおもしろさを知り、デザインの仕事に就くことを目指すようになりました。 一方で私は学生のころからとてもスポーツが好きで、たとえば大学ではずっとスノーボードに力を注いでいました。そうしてデザインとスノーボードをはじめとしたスポーツを掛け合わせて考えた際に、自社でスポーツ用品もてがけようとしていた前職が就職先として浮かび上がってきたのです。 ただ会社は組織ですから、希望の仕事ができるとは限りません。そのためデザインに携われない可能性もあることから躊躇もしていました。 でもそんなとき大学の先生に「他人のデザインした物を売るのは楽しいけど、自分がデザインした物を売るのはもっと楽しいぞ」と声をかけていただいて……。 その言葉が大きな後押しとなり、前職のスポーツ用品店に入社しました。ある意味、現在にも通ずる私の原点といえる言葉かもしれませんね。 就職したスポーツ用品店には数年間勤務し、転勤も重ねながら順調にステップアップ。最終的には店舗の副店長を務めていました。しかしあるとき、会社の方針の転換で自社製品のデザインをアウトソーシングすることとなったのです。 必然的に私の夢も叶わないことが決まってしまい、今のままでいいのかと、仕事について考えるようになりました。 父に相談すると父の仕事、つまりこのアトリエ小倉染芸の仕事について教えてくれました。 東京手描友禅は日本古来のデザインと考えられること、そしてデザインに集中できる環境を整えやすいということ。父からさまざまな話を聞き、考え、私は家に入ることを決めたのです。 一方で父は複雑な想いを抱いていたようです。 職人としては文化の継承のため、後継者を育てたいと思いつつ、父親としては息子である私に安定した仕事についてもらいたいとも思っていたようでもありました。 ただでさえ市場が縮小しているなかで、先ほどもお伝えしたバブル崩壊時のような大きな変化が起こってしまったらどうするのか?そんなことを考えてくれていたようです。 そういった背景から「家に入る」と伝えた際、父からは「何かあったときのために、1年働いてお金を貯めてこい」と言われました。 そしてその1年後、27歳で、私は家に入ったのです。