大学日本一から一転、不遇の3年間。“拾われたエース”石井宗人がポルセイド浜田で描く逆転劇「このクラブでF1に上がったら、面白い」|フットサル
大分での葛藤「何しにここに来てるんやろ」
──多摩大学から大分のサテライトには、どのような経緯で入団しましたか? 大学卒業後の進路を探していた時に、同学年で僕だけチームが決まっていない状況になりました。どうしようかなと思っていた時に、大分からうちの大学の監督に「ピヴォはいないか」と連絡が来て、行ってみるか?と声をかけてもらったことがきっかけです。遠い地に行くという、安易に逃げ出せない選択をしたほうがいいかなと思って決断しました。 ──そこからトップ昇格までの道のりを振り返っていかがですか? 苦しかったことのほうが多かったです。1年目は大分で特別指定の登録をしてもらいましたが、ベンチ入りしたのは2試合だけで、出場時間も5分あるかないか。当然トップ昇格はその時はありませんでした。 もう1年、サテライトで、特別指定を目指しながらやっていましたが、2年目は同じポジションの別の選手が特別指定で入り、僕はサテライト1本でやっていました。「何しに大分に来てるんやろ」という気持ちになりましたね。でもそこで腐らずやれたことは良かったと思います。 ──サテライトの練習でしっかり取り組んでいたのですね。 当時、小曽戸(允哉)選手などがいたので、練習はすごく楽しくやれていました。小曽戸選手は、プレーはもちろん、人間性を尊敬しています。練習前は、誰よりも先に着いて、1時間半前からストレッチをしたり、準備したりしていました。だから自然とみんながそれについていくような形で取り組んでいました。 ──2年目をサテライトで過ごし、トップに昇格した3年目はいかがでしたか? 正直、2年目より苦しかった印象しかありません。開幕戦に少し出場して、そこからはずっとベンチ外という状況だったので、全然楽しくなかったです。どうやったら試合に出られるのか、どこを直せばいいのか、どこが評価されてないのかとたくさん悩みました。今思うと、それによってどんどんマイナスな考え方をしていたと思います。 ──浜田への移籍は、どのように決めましたか? 試合に出られずクビを切られたタイミングで、浜田の田之上(龍道)コーチから話をもらいました。大分に残れないことはその時には決まっていたので、迷うことなく「いきます」と答えました。 ──一昨年に浜田に加入するまでは、F2で最下位でしたが、そこに対するためらいはありましたか? 最下位だから、という気持ちは特にありませんでした。移籍する前に大分と浜田で練習試合をする機会があったのですが、そこでいい試合をしていたことを覚えています。ちょうど監督も村松さんになっていた時だったので、あの人も熱いですし、チームに一体感があったのがいいなと思いました。