決断しないので失敗はしないが、自立もできない「モラトリアム」に陥ってしまう「ヤマアラシのジレンマ」という原因
日本は今、「人生100年」と言われる長寿国になりましたが、その百年間をずっと幸せに生きることは、必ずしも容易ではありません。人生には、さまざまな困難が待ち受けています。 【写真】じつはこんなに高い…「うつ」になる「65歳以上の高齢者」の「衝撃の割合」 『人はどう悩むのか』(講談社現代新書)では、各ライフステージに潜む悩みを年代ごとに解説しています。ふつうは時系列に沿って、生まれたときからスタートしますが、本書では逆に高齢者の側からたどっています。 本記事では、せっかくの人生を気分よく過ごすためにはどうすればよいのか、『人はどう悩むのか』(講談社現代新書)の内容を抜粋、編集して紹介します。
生きる意味の追求
精神保健学の教科書によると、思春期から青年期の若者は、生きる意味を追求しないでは、精神的に健康ではいられないとあります。 生きる意味の追求は、「価値観」の創造でもあります。自分のすべてを賭けられる何か、自分固有の価値観を見つけることができれば、それがアイデンティティの獲得になり、その後の人生で精神的な支えになります。 その「価値観」は、独りよがりなものであってはならず、社会や他人からも評価されなければなりません。特に自分が共感を示す他者からの評価が重要で、青年期は常にその存在に過敏になります。 周囲の評価が気になるのは、未熟で実績がないからで、社会に出て間がない青年期には致し方ないことです。 また、経験を積んでいないために、極端な考えに走ったり、途中で混乱に陥ったりもします。幼児性の名残として自己中心性を見せるかと思えば、理想的な愛他主義に染まったり、強い保守性を示すと同時に、甚だしい革新性や過激思想に染まったりもします。平和主義や人類愛を訴えながら、仲間割れをして対立し、ときには同志を殺傷する事態になったりします。かつての学生運動が多数の内ゲバ事件を起こし、連合赤軍事件では、リンチによる十数名の同志殺しも行われました。一九八○年代後半から九五年にかけて発生したオウム真理教事件でも、もともとは善良な気持ちで参加した信者たちが、教祖の指示で敵対する弁護士一家を殺害したり、地下鉄でサリンを撒いて無差別殺人を行うまでになりました。 これらは青年期特有の知性偏重(いわゆる頭でっかち)や、鋭い感受性、強い好奇心や共感性(すぐに仲間と盛り上がる)などによるものですが、他方、青年期には虚無的な無関心、独善的な高踏趣味、世の中を斜に見る冷笑主義などもあり、一九七○年代に学生運動が衰退したあとの若者に見られた「三無主義」(無気力、無関心、無責任)は、その表れでしょう。いわゆる「しらけ世代」です。 一九七五年に二十歳になった私は、まさにこの世代で、残り火のように細々と続いていた学生運動を横目に見ながら、社会の動きや政治には無関心で、大学の講義や実習も最低限しか参加せず、手探りで小説家になる道を求めて、目の前の享楽にかまけていました。医学部のクラブでサッカーをし、油絵を描いたり、映画を観たり、一人旅で各地を放浪したりと、今ではあり得ない大学教育の緩さに甘えきっていました。古きよき時代ですが、同級生の多くは立派な医師になるための勉強に邁進していて、根無し草の私を憐れみの目で見ていたようです。