歴史学者・磯田道史が入れ込む映画『花戦さ』に描かれた“生かす戦国”とは?
戦国時代なのに本能寺の変が描かれない理由
『花戦さ』では、最初のほうで織田信長(中井貴一)と池坊専好(野村萬斎)が出会う、岐阜城で大砂物をいけるシーンが描かれます。でも次の場面では、もう豊臣秀吉(市川猿之助)が天下人になっていて、時代を動かした本能寺の変は描かれません。それはたぶん専好が、信長をあまり認識していなかったからだと思います(笑)。 この映画は、専好の心の中に強い映像印象を残したものだけで構成されています。専好は、記銘記憶がほとんどない人。利休が大人っぽいのに対して専好は無邪気で、ほぼ画像記憶しかない人物として描かれています。権力欲がなく、今でいう花ヲタです(笑)。そういう人の記憶にはよほどのこと以外は残らないのでしょう。もちろん実際の初代・専好さんとは異なると思いますが、『花戦さ』では画像記憶の人というふうに描かれている。信長のこともたぶん、すごく背の高い南蛮風の着物を着た眼付きの鋭い男が、自分がいけた松の大砂物を褒めてくれたとしか認識していない。そんな人が本能寺の変で亡くなったとしても、専好の記憶と結びない。徹頭徹尾、専好の視点で描かれているわけです。 花を形として写し取ることができる少女れん(森川葵)は、心の中に映じるので詳しく描かれる。言葉によるコミュニケーションしかできない人でも、プラスとマイナス、記銘記憶のない男は、記銘記憶の優れた友人に惹かれるわけです。そしてその幼馴なじみの吉右衛門(高橋克実)らは作った狂歌がきっかけで斬首され、河原に晒される。その画の記憶は強烈に残るわけです。『花戦さ』の物語は、脚本家・森下佳子版専好の心の中に映ったものだけで押し進められる。そのように描かれていると理解しました。本能寺の変は、専好の記銘記憶に乏しいから描かなかった。確信犯でしょう。
取り柄がないのは素晴らしい
秀吉も悲しい人です。自分の力を見せつけ、屈服させることでしか自己実現や自己承認できず、それがコミュニケーション手段となっている。利休にも欠陥があって、自分の心にある思想や価値観の中で生きていて、そこから出ようとしない。だから辛そうに、もう死ぬことでしか秀吉とのコミュニケーションは取れない、などというわけですよ。 欠陥がないのは前田利家(佐々木蔵之介)くらい。周りに過不足なく配慮ができる人。――本当の彼は戦場で敵の首を取ってくるのが取り柄(?)になっている武功の人なんですけど、この映画では過不足ない人間として描かれている。「取り柄がない」とよく人は言いますよね。取り柄がないと自信をなくされているわけですが、僕は偉大だと思うんです。取り柄のあるということはどこかが欠けていることですから。山を高くするためにはどこかが低くなる。ギザギザに刻まれたコップの淵のようなもので、低くなっているところから水は漏れるんです。この映画の中の利家は目立ちこそしませんが立派。いなければならない人です。 『花戦さ』という映画で、人間がこだわるさまをこれだけ見せられ、僕はあらためて、“歴史とはこだわらない心を知る手段”なのだと思いました。自己のとらわれているところ、不器用なところを知り、不器用は不器用なりでいいので、人を傷つけないようにと。そう思わせる映画でした。