歴史学者・磯田道史が入れ込む映画『花戦さ』に描かれた“生かす戦国”とは?
『花戦さ』の時代背景
『花戦さ』で描かれる戦国時代は、当初は誰しもが天下人になれるかもしれない状態であり、“暴力”が拡散していました。その暴力が集中統合されるのは信長、秀吉ら天下人が現れる時代。戦乱は収束し、暮らしも安定しはじめたはずです。そうなってくると怖いのは、集中統合された暴力が自分の頭に降ってくること。天下人の持つ暴力は絶大なものでしたから。例えば秀吉は、朝鮮出兵の際に人口1200万人くらいの当時の日本から、な、な、なんと48万人を動員し、10万丁単位の火縄銃をコントロールしています。そのくらい彼は力を持っていた。その上、言論統制まで始めたりするわけですよ。これは当時の人にとって、生活が安定する一方で、大きな恐怖だったわけです。 現在はどうかというと、戦後70年も経ち、もうないかと思ったら、いまだ核や生物化学兵器の恐怖にさらされています。集中統合された暴力の恐怖から、まだ解放されていないわけです。これまでの戦国時代を描いたドラマは、そんな集中統合した権力を握る天下人の立場から描かれていたものばかりでした。しかしどんな時代でも、普通に暮らす人たちは生きたいと思っているし、自然の美しさを愛しているわけですよ。この人たちから見た戦国時代を描く映画ができないものかと、僕はずっと思っていました。『花戦さ』はそれを実現させた作品だったわけです。 米国出身の日本文学者、ドナルド・キーンさんが以前、「日本人はわかりません。花を愛し、自然の美を愛し、源氏物語のような絢爛たる美を愛する一方で、神風連の乱のようにいきなり人を襲って、刀で輪切りにするような残虐性や野蛮性を見せつける。日本人の二面性に戸惑う」とおっしゃったのを思い出します。これはずっと僕をとらえている問題で、この映画にもあるように殺す戦国がある一方で生かす戦国もあった。明日、殺されるかもしれないから、一瞬の自然の美を強く愛すということでもあるんでしょう。一瞬の時を大事して茶室で一杯のお茶を味わうのも、花の美を愛でるのも死が横にあるから。『花戦さ』は、冒頭でも死と隣り合わせの社会の中で、儚い花の美を愛でるというテーマを描きますよね。殺す戦国もあれば、生かす戦国もあったというテーマを打ち出した。この点でとてもよく意図が描けている映画だと思いました。