101歳のラーメン店員!週6回厨房に立つ「ふくさん」に会いに、全世界から客が訪れる理由
映画館から町中華へ――大胆なビジネスモデル転換
やがて、ふくさんが22歳のときに終戦。昭和24年(1949年)にお見合いで夫・孝さんと結婚。26歳のときだ。 「主人の実家は映画館。主人ではなく映画に惚れて嫁いできたんですよ(笑)」 当時、この街には映画館は1軒しかなく、家業の「銀映座」は街の文化の中心となった。 「映画が全盛期の頃は、とにかく繁盛しましたよ。そのおかげで、子どもたちを東京の大学に通わせることができました」 1950年代、日本の映画産業は興隆を極めたが、その後、テレビの急速な普及や娯楽の多様化により衰退。銀映座も時代の変化の波には抗えなかった。 「そこで主人が『ラーメン屋をしよう』と言い出してね。でも結局は、私が高崎にラーメンを習いに行ったのよ。私は食べるのは好きだけど作るのは大嫌いだったのに(笑)。近所のおばさんからも『よくやる気になったわね』と言われましたけどね。背に腹は代えられない」 当時、ふくさんは42歳。まさに「四十からの手習い」だ。 「店名は、映画館が『銀映座』だったから、中華の”華”を一文字とって『銀華亭』にしたの。単純でしょう(笑)。でもこんなに長く続くとは思わなかったわ」 すぐに近くの役場や商店で働く人が常連客となり、昼は定食、夜は酒のつまみを求め、深夜まで賑わったという。 「お店をやっているとはいえ、私はよく旅行に行ったりしましたよ。うちの主人はいい人でね、私もおとなしく言うこと聞く性格じゃないのを知っていたんでしょうね(笑)。いつも『行ってらっしゃい』と快く送り出してくれたもんです」 心やさしき夫も2003年に他界。一時は閉店を考えたものの、長女の武者久美子さん、長男の俊二さんの支えもあり、店を続けていくこととなった。それから20年以上経つ今もラーメンを作り続けるふくさんが明かす“生きるヒント”とは。 つづく後編記事『週6回ラーメン店で腕を振るう「101歳のふくさん」が明かす…健康のためにしている「意外なこと」』では、その元気の秘訣について聞きました。 (取材・文/アケミン 撮影/週刊現代編集部)
アケミン、週刊現代