2年9か月間だけの結婚生活 「夫の分まで生きる決意」に至るまで 【#あれから私は】
託された言葉と、やるべきこと
苦しい中でも英子さんたちは、「今やらないと、ずっとできなくなる」と、廣さんと始めた光太郎祭を震災の年も絶やさなかった。「何とか前に進もう」と英子さんが考えられたのは、廣さんが繰り返し聞かせてくれた言葉のおかげだった。「お兄さんは心の中で生きている」。同じように、「貝さんも私の心の中で生きている」と、少しずつ思えるようになった。
廣さんがよく自作の絵手紙を通じて励ましていた知人は、「津波で何も残っていないだろうから」と気遣い、受け取った約100枚のはがきを英子さんに届けてくれた。中でも心に響いたのは、「今日の春のように あかるく あかるく これ一番」の一文。知人宛だった廣さんの便りは英子さんを支えるメッセージへと変わり、「私が生きていけるように、貝さんが備えをしてくれていた」と思えてならなかった。廣さんのことをみんなに知ってほしくて、絵手紙はきれいにTシャツにプリントし、震災から1年後に仮設商店街で再開した釣具店で販売した。 月日が経過したからといって、心の深い痛みが癒やされるわけではないと英子さんは思う。あの日のことがフラッシュバックし、普段は「ふたをしているだけ」の悲しみが抑えきれなくなることはたびたびある。震災から数年がたっても、つらさがこみあげて涙が止まらず、仮設住宅の自室に閉じこもって誰にも会わない時期があった。 一方で、店に出て昔のように友人たちと過ごせば、自然と笑顔になれた。地元の新鮮な魚介を食べさせようとわざわざ持ってきてくれる仲間や、復旧支援が縁で新たにできた友人など、多くの人が寄り添ってくれた。離れていた日本舞踊は、廣さんが「えこちゃんは踊るために生まれてきたんだよ」と励まし、舞踊家としての内面の成長を導いてくれていた生きがい。教室での指導はもうできない。でも徐々に、「体が踊りたがっている」と感じられる。舞台に復帰できたら、慰霊や鎮魂の思いを込めた舞を震災で亡くなった方々へささげたい。そうやっていつのまにか、「振り返らず前だけを見て、明るく生きていきたい」と願っている自分がいた。落ち込むことがあっても、もがき、またはい上がることを繰り返して毎日を生きた。 英子さんと仲間は行政への働きかけを続け、文学碑の再建を昨年果たした。目の前には、廣さんが残した「やるべきこと」がまだたくさんある。文学碑は、外装を整える仕上げの作業が残っている。光太郎祭も、毎年続けていかないといけない。そして簡単なことではないけれど、いつの日か廣さんの絵の個展を開き、残した言葉を書物にできたら、という希望もある。 英子さんが今、はっきりと語るのは、「私は貝さんの分まで生きないといけない。生きている私に全部を託してくれたのだから、貝さんのもとに行くのはもっともっと先にする」という決意だ。いつかまた廣さんに会えたとき、「よく頑張ったね」と言ってもらえるように。