「釜石の日常」カメラに収め68年 復興2度見つめた写真愛好家、故郷に別れ
戦時中に米英軍の艦砲射撃に襲われ、東日本大震災では大津波にのまれた岩手県釜石市。その都度、自宅を失いながらも、68年にわたって釜石の街並みや住民の暮らしなど「日常」をカメラに収め続けた男性がいる。元郵便局員の小川誠也さん(88)。「ここは人がいいんだよ。人が」。釜石を愛し、釜石とともに人生を歩んだ小川さん。しかし、今月初め、一人静かに故郷を後にした。
叔父の遺品のカメラと出会い
生まれこそ東京だが、物心が付いたときには釜石にいた。自宅は港から数百メートル。街の中心部にあった。小学校も、中学校も地元。根っからの釜石育ちだ。 終戦時に18歳。戦時中の記憶ははっきりと残っている。特に忘れられないのが1945年7月14日。艦砲射撃に釜石中心街が襲われたときだ。米軍側の主な標的は製鉄所。小川さんは当時、その工場で勤務していた。 「『ドーン』『ザァー』と音がするんです」。白昼の攻撃は2時間にわたった。静けさが戻り、身を潜めていた地下室から出た小川さんが目の当たりにしたのは折れた工場の煙突と、焼け野原となった市街地。夕方に自宅に戻るも、建物は跡形もなく、ただ何かが真っ赤に燃えているだけだった。
米英軍による艦砲射撃は8月9日にも行われた。二度の艦砲射撃による犠牲者は計750人以上。小川さんと両親、妹の一家四人は難を逃れたが、二度目の攻撃の後、親戚のいる農村部に疎開した。 一家が再び釜石に戻るのは1947年。そして小川さんは郵便局員として働き始める。ある日、母の実家の蔵で、戦死した叔父の遺品を整理していると、一台のカメラがあった。「蔵が戦災を免れて幸いだった」。これがカメラとの出会いだった。
何気ない日常 貴重な記録に
最初はカメラの扱いも分からない。機材店の店員や他の写真愛好家に教えを請い、見よう見まねで始めた。 「仕事の合間に郵便局の様子とかを撮ったり。当時は写真機もないから、仲間に『写してけろ』と言われて。撮ると喜ばれたから、そのうちに面白くなって、コンテストに出して敢闘賞とかとって…」 気が付いたら、のめり込んでいた。