「光る君へ」藤原道長の始祖は大阪に眠る 副葬品解析から見えてきた「鎌足ゆかりの冠」
90年前に大阪府高槻市の阿武山(あぶやま)古墳で出土した副葬品が、飛鳥時代の大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠(たいしょくかん)」の特徴と一致することが牟田口章人・帝塚山大客員教授の調査で分かった。大織冠は大化の改新の立役者で、平安時代に摂関政治で最盛期を極めた藤原道長の始祖となる藤原鎌足(かまたり)に与えられており、被葬者を鎌足とする説がより有力となった。付近には別邸もあったとされ、鎌足ゆかりの地だったようだ。 【写真】北摂の山腹に築かれた阿武山古墳 ■エックス線写真解析で判明 阿武山古墳は北摂山系・阿武山からの尾根筋に位置し、昭和9年に京都大の地震観測所地下で見つかった。石室内に麻布を漆で固めた棺があり、男性被葬者の頭部付近には金糸なども残っていた。だがその後は、本格的な調査は行われないまま埋め戻された。 事態が動いたのは昭和57年。当時、民間放送の記者だった牟田口氏は観測所で発見直後に撮影したエックス線写真などを見つけた。京大に発足した研究会が調べたところ、男性が晩年は脊椎骨折で下半身不随となり、ヒ素を薬として服用していたらしいことが判明。さらに、頭部付近の金糸は織物の冠を構成していたとみられ、被葬者が大織冠を与えられた鎌足である可能性が高まった。 令和4年から今年にかけて牟田口氏はエックス線写真の画像解析を進め、複数の金糸が折り返して密集している箇所を発見。これは綴織(つづれおり)という織り方の特徴で、日本書紀によると大織冠は織物で綴織の一種とされることから被葬者は鎌足と判断した。花文様がアップリケされていることも確認したほか、棺内には大化の冠位制度にある鐙冠(つぼこうぶり)の断片らしい布片があることも突き止めた。 牟田口氏は「2つの冠があったらしいことが分かり意義深い。阿武山古墳は具体的な人物を被葬者として論じられる貴重な例となる」と語る。 ■筋肉隆々の武人 鎌足は藤原姓が与えられ藤原氏の始祖となる以前は中臣(なかとみ)氏で、生誕地は大和国高市郡(現在の奈良県高市郡、橿原市周辺)などとされる。中臣氏は祭祀(さいし)を司った有力氏族で、仏教の受け入れを巡り物部氏とともに蘇我氏と対立した。 日本書紀は鎌足について「人となりが忠正で世を正そうという心があった」などと記すが、牟田口氏はエックス線写真から「背が高く、筋骨隆々で武人としては(張りが強い)強弓の使い手だったのでは」と推測。さらに、鎌足が作り上げたとされる大化の薄葬令から「三国志のような中国の古典にも通暁したインテリだったのでしょう」とも考える。