「光る君へ」藤原道長の始祖は大阪に眠る 副葬品解析から見えてきた「鎌足ゆかりの冠」
鎌足は蘇我氏を倒すために軽皇子(かるのみこ)(後の孝徳天皇)に、その後は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)に接近。飛鳥(奈良県明日香村)の法興寺(飛鳥寺)の槻(つき)の木(ケヤキ)の下で蹴鞠(けまり)をした際に中大兄のくつがぬげ、それを鎌足が拾ったことをきっかけに2人が親密になったというエピソードは有名だ。
中大兄と鎌足が大化の改新につながる「乙巳(いっし)の変」を起こしたのは翌645年。飛鳥板蓋(いたぶき)宮で蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、権力を振るっていた蘇我氏は滅亡した。軽皇子は即位して孝徳天皇に、中大兄は皇太子となり、鎌足は側近として活躍した。
天智8(669)年、天皇は大海人(おおあま)皇子に鎌足の家を訪ねさせ、大織冠と大臣の位、そして藤原の姓を与えた。鎌足が50代半ばで亡くなったのは翌日のことだった。
■鎌足にふさわしい地
飛鳥から東南に位置する奈良県桜井市多武峰(とうのみね)。この地に鎮座する談山(たんざん)神社の祭神は藤原鎌足だ。今秋は鎌足に関する社宝を集めた特別展(12月15日まで)も開催している。
鎌足の生涯などを伝える「多武峰縁起」によると、鎌足の長男、定恵(じょうえ)が中国・唐から帰国後に父の遺骨の一部を改葬し、十三重塔と講堂を建て妙楽寺としたのが神社の起源で、墓が当初造られた地は「摂津・阿威山(あいやま)」とされる。阿武山古墳近くには大阪府茨木市安威という地区があり、中臣氏に関連する阿為神社などもある。
日本書紀によると、鎌足は30歳の頃に祭官を務めるよう求められたが、辞退して「摂津・三島」(現在の大阪府茨木市、高槻市など)に住んだ。
一方、鎌足最晩年の頃は、都は天智天皇の近江大津宮。近くの京都市山科区には鎌足の邸宅「陶原(すえはら)家」もあったといい、ここには藤原氏の氏寺となる奈良・興福寺の前身寺院、山階寺(やましなでら)も建立された。
高槻市立埋蔵文化財調査センター学芸員の今西康宏さんは、「阿武山は(孝徳天皇の宮があった南西方向の)難波や(大津に至る)淀川周辺も見渡せる高台で、鎌足が眠るのにふさわしい場所だったのでしょう」と話した。(岩口利一)