【ABC特集】家を失い避難所に入れなかった住民たちが身を寄せ合って生き抜いた記録 “仲よしテント村”に密着100日 阪神淡路大震災29年
着の身着のままで逃げ出した先で避難生活
神戸市灘区・大石東町に作られた「仲よしテント村」。近くに住む人たちが地震発生当日から着の身着のまま逃げ出したのが、この駐車場でした。自治会からもらったテントを建て、20人あまりが避難生活を送りました。
髙橋さんも、その1人でした。 「(避難所に)行きましたけど、いっぱいだったんですよ。体育館もいっぱいだった。」
避難所に入りきれなかった住民たちが「テント村」に
阪神淡路大震災で避難生活を送った人は最大およそ32万人。学校や公民館などの避難所は人で埋め尽くされ、入れなかった人も大勢いました。当時、被災した地域のあちこちで、住民たちが自ら「テント村」を作ったのです。
「こんな格好してたら、どこかの何かみたいに思われる」 当時、タクシー運転手をしていた溝下康雄さん。仲よしテント村のリーダー的存在でした。 (溝下さん)「仕事はせなあわんわ、ここ帰ってきて『何かしてあげなあかん』いう気になるやん」 (テント村の女性)「もう十分や。ようしてもらってる。朝、火がおこっているだけで、ありがたいわ」 (当時を振り返る髙橋さん)「みんな親切にしてくださったからね。私が(仕事で)いなくても、ちゃんと私の分も(衣類などを)取ってくださってた。寸法が合うか分からなくても、みんなと同じようにしてくださったのがありがたかったかなと」
「(汁ものを飲んで)おいしい~!」 まともな食事が取れるようになったのは、2週間ほど経ってからでした。冷蔵庫の残り物、配給のおにぎりやお弁当、友人からの差し入れなどを分け合いました。
タンスの下敷きになった妻
仲よしテント村には、家族を失った人もいました。大西克己さん。震災当時、隣の部屋で寝ていた妻の克子さんがタンスの下敷きになり、亡くなりました。 (大西)「ゴゴーっていう音だけやったもんね。後はどんな揺れがあったか覚えてないわ。『おかあちゃん』、『おかあちゃん』って一生懸命呼んだけど返事がなかったからね。ひと言もなかったんですよ」