新入社員向け指南書「そんな会社なら辞めちゃえ!」【作家・鈴木涼美のコラム】
若さというのはとても尊い時間だ
たしかにジリ貧な国で、少しでもマシな生活を手放したくないというのは正直な心理ではあるし、実際に日本でもアジアでも、良い就職先から漏れて貧困に直面する若者は社会問題になっています。ただ、一つの会社に留まることと貧困に苦しむ生活はどちらかひとつを選択するような関係にはないし、金銭的に安定することと幸福に暮らすこともまた必ずしも一致するわけではないため、この場所から外れたら不幸になる選択肢しかないというのは多くの場合が思い込みかもしれないわけです。 年齢で差別するつもりはありませんが、私は若さというのはとても尊い時間だと思っているので思い込みで若い時間を辛いものにしてしまうのはもったいないと感じてしまうのです。
『鉄の檻』マックス・ウェーバー・一つの人間劇
私自身はこれまで細かく分ければ色々な仕事をしてきましたが、大学院を修了したあとにやはりこの春の季節、二、三年執筆や研究からは距離を置こうとなんとなく思って大きな企業に入りました。いわゆる就職というのをしたのはそれが初めてで、それまでは四月も九月もあまり関係のない水商売やポルノ業界にいたので、ザ・新入社員という感じの格好をして、入社式や新人研修を受ける自分にそれなりに新鮮味を感じてはいました。 それでも気持ちの半分は、つまらないところに来てしまったなとか、小さくまとまった大人になってしまったなとか、マックス・ウェーバーが鉄の檻とよんだものの中にどうして私は勇(いさ)んで入ってしまったのだろうという憂鬱さに覆われていた気がします。
妥協した日常に慣れ切ってしまう恐怖
私の場合は大変運がよく、会社の風土や周囲の上司の性格がそれほど肌に合わないということはなく、大きなストレスを感じることなく新入社員の日々は過ぎていきました。 何千人も社員のいるような企業ではキャバクラなどの、どろどろした人間関係に比べればそれほど面倒なことはなく、嫌いな先輩や腹の立つ上司がいたら、勝手に距離をとったり、逆に至近距離まで近づいてちょっかいを出し、敵と寝るみたいなことをして遊んだりすればよかったからです。 そういう生ぬるい環境が嫌いではないのか、気づけば二年経ち、三年経ち、アッという間に自分が在籍する予定だった年月を超えていました。 入社当初の憂鬱な気分を忘れてすっかり会社員の日常に慣れ切っている自分に少し怖くなった、というのが、入社六年目に退職を決意した一番の理由です。好きな時に自己責任で旅行に行けないことや、コンディションの悪い時に無理やりでも出勤して完成度の低いものを出さなくてはいけないことも、徐々にストレスに感じていました。結局、今からちょうど十年前、特に大きなプランもなく、フリー転身という体で会社をやめてしまいました。