断頭台では砕けた顎がだらりと下がり、苦痛に叫んだ…「恐怖政治の元凶」ロベスピエールはなぜ悲惨な最期を迎えたのか?(レビュー)
マクシミリアン・ロベスピエールは、ルイ16世が統治する1758年のフランスに生まれた。優れた成績で学業を修めて弁護士となった後、第三身分である平民の議員として三部会、国民議会などに加わり、民衆の支持を集めてフランス革命を先導する有力な革命家となっていく。 【画像】銃口が顔に…逮捕されてからスピード処刑された「ロベスピエール」の様子を絵画を見る しかし、ルイ16世や王妃マリ=アントワネットら王族のみならず、多くの政敵を断頭台に送りその首をギロチンではねさせたことから、ロベスピエールは「恐怖政治(テロル)の元凶」とされた。 そして、ロベスピエール自身も「暴君」と他派議員らに非難され失脚し、悲惨な最期を迎えることになる。パリ市庁舎で逮捕される際には、左頬に銃弾が貫通し、顎が砕けて大量出血した。瀕死の状態のまま裁判も行われずに死刑が確定し、逮捕から即日でギロチン送りとなったのだ。断頭台では、苦痛のあまりに物凄い叫び声を上げる中、刃が首を落とした。 露悪的な政治スタイルが売りのトランプ大統領や、裏金に揺れる日本の政治家とは違い、ロベスピエールは、良心にもとづく「美徳」を大切にしていた。なぜ、民衆から熱狂的に支持された清廉な政治家が、「恐怖政治の元凶」になってしまったのか。 フランス文学者の鹿島茂氏が、『ロベスピエール 民主主義を信じた「独裁者」』(髙山裕二・著)を読み解きながら、その理由を考察した。 ***
ロベスピエール、あるいは美徳の不幸
希望に満ちて始まったフランス革命をジャコバン独裁の恐怖政治に導き、「独裁者」と呼ばれたマクシミリアン・ロベスピエールの新しいこの評伝に私なりにタイトルを与えるとすれば、それは「ロベスピエール あるいは美徳の不幸」となるのではないだろうか? 実際、美徳こそはロベスピエールが拠り所とした第一原理であった。若き日に故郷アラスのアカデミーにおける入会演説でロベスピエールは政治・社会の基礎には《美徳》がなければならないとして、モンテスキューのいう「名誉」を論難する。というのも、名誉とは他人からの評価を基準とする外面的なものであるのに対し、「『真の共和政』は哲学的名誉(=美徳)と呼ばれる内面から湧き上がる感情、良心にもとづく政治であり、またそうでなければならない」からだという。 ロベスピエールはたしかにこの信念を断頭台にいたるまで貫いた。だからこそ「清廉の人」と呼ばれ、過激なだけのエベールなどとは峻別すべきなのだが、問題はこのロベスピエールが第一原理とした美徳が国民公会と民衆に強い影響を及ぼし、恐怖政治という不幸を招きよせ、ついにはロベスピエールその人の死を招来したのではないかという仮説が成り立つことである。つまり、ロベスピエール自身が美徳の不幸そのものではなかったかということだ。