『光る君へ』ドラマでは描かれなかった藤原道長の壮絶な最期、四納言や道綱はどのように人生の終わりを迎えたのか?
■ 子どもに先立たれて病に苦しむ道長の最期 道長は万寿4年12月4日(1028年1月3日)に病没。61年におよぶ激動の生涯にピリオドを打つ。ドラマでは、まひろが倫子に頼まれて道長の最期に寄り添い、物語を聞かせることになったが、実際は壮絶な最期だった。 病が重くなる以前に、精神的にもつらい時期を過ごしていた。万寿2(1025)年には、敦明親王の女御となっていた三女の寛子は27歳で死去。さらに、最終回でもあったように、敦明親王の妃だった六女の嬉子は19歳で命を落とす。 そして万寿4(1027)年に、出家していた三男の顕信が34歳で亡くなり、その4カ月後には、次女の妍子にまで先立たれたのだから、心身の疲弊はかなりのものだったと思われる。 もともと糖尿病と思わしき症状を訴えていた道長は、そのうち下痢が激しくなり、背中に大きな腫れものができる。万寿4(1027)年11月24日には震えが止まらなくなり、針博士の和気相成(わけのすげしけ)からこんな診立てを伝えられている。 「背の瘡、其の勢ひ、乳垸に及ぶ。彼の毒気、腹中に入る。振はるるは、或いは頸、事に従はざるなり」 (背中の腫物が乳首や腕にまで広がり、その毒が腹中に入ったのだろう。震えているのは、頸が思う位置に定まらないからである) 何とかせねばと、12月2日には医師の丹波忠明が背中の腫れ物に鍼を刺して膿を出す。道長は悲痛の叫びをあげながら、昏睡状態に入ったという。病没したのは、その2日後のことである。 そんな悲壮感漂う道長の晩年は、どちらかというと「ざまあみろ」という文脈で語られがちだった。「望月の歌」ですっかり傲慢なイメージがついた道長がわがまま放題、栄華を誇った末に苦しみながら死んだのは、当然の報いだと捉えられる向きさえあった。 そんな中『光る君へ』は、ひたすらヒール役だった道長の評価を見直す一つの契機となったといえよう。