『光る君へ』ドラマでは描かれなかった藤原道長の壮絶な最期、四納言や道綱はどのように人生の終わりを迎えたのか?
■ 見解が分かれる史実、紫式部は道長の「妾」だったのか それに対して、母である倫子はどう考えていたのか。道長と式部が恋仲にあったとすることで、倫子にとって「娘の心までも奪われた」と感じるのは自然なこと。あまりにも残酷で、また心を揺さぶられる設定だと感じた。 倫子から「それですべて? 隠し事はもうないかしら」と念を押されると、まひろは「……はい」と答えている。だが、このドラマでは、式部の娘・賢子(かたこ)は道長の子どもという設定になっている。道長との関係を吐露しても、まひろは娘の出生については秘密を抱えて生き続けるほかなかったのである。 さて、まだ事情を詳しく聞く前、倫子からは「まひろさん、殿の妾になっていただけない? そうしたら殿も、少しは力がお付きになると思うのよ。どうかしら」という問いかけすらあった。 大人の対応であり、余裕さえ感じられる。だが、まひろと夫との関係の深さを知ってからは、倫子がその自らの提案に触れることはなかった。 倫子の受けた衝撃の大きさが伝わってくるが、当連載でも触れた南北朝時代に成立した系図集『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』での記述を思い出してほしい。紫式部の説明にこんな記述がある。 「御堂関白道長妾云々」 ここでの「妾」の意味合いについてはさまざまな見解がある。また、『尊卑分脈』の記載自体に信ぴょう性が欠けるため、この記述をもって紫式部が道長の妾だったとは思わない。 だが、式部自身が『紫式部日記』で、道長と和歌のやりとりをしている様子は書いており、当時から、噂はあったのかもしれない。最終回で倫子が「殿の妾になっていただけない?」と提案したのは、そんな風説をも反映する見事な展開だといえるだろう。
■ 実像に近かった? 愛されキャラの藤原道綱 最終回では、道長の臨終の場面が描かれたが、道長と関係のあった公卿たちの生き様もよく描写されていたように思う。 道長にとって異母兄にあたる藤原道綱は、シリアスな展開の中でも、ちょっと間が抜けた人物として「愛されぶり」を発揮した。最終回では、左大臣の藤原顕光が陣定で居眠りをしていたため、道長の息子で摂政の藤原頼通が激怒している。前回の放送であったように、父の道長から摂政を受け継いだ当初、頼通は何とも頼りなかった。だが、この頃には、顕光を叱り飛ばすほどに成長していたようだ。 実際に、左大臣の顕光が辞任するという噂が宮廷社会を駆け巡ったことがある。大納言の藤原実資や、権大納言である藤原斉信(ただのぶ)・源俊賢(としかた)・藤原公任(きんとう)らは、色めきだったという。中でも突拍子もない動きをしたのが、藤原道綱である。 藤原実資の日記『小右記』によると、道綱は道長に自分を大臣にするようかけ合うものの、よい返事がもらえなかったため、道長の妻・倫子にアプローチを行っている。だが、道綱は能力があまり高くなかった。実資からは「一文不通」、つまり「文字が書けない」と揶揄されて、「あいつは自分の名前を書くのがやっと」と『小右記』に書き残されている。 仕事ができるタイプではないだけに大臣は難しい、と周囲だけではなく、自分でもそう思っていたようだ。道綱は倫子に「上に堪へず。病、極めて重し。事に従ふべからず。但し上﨟の納言と為て、年労、太だ多し」と言い出した。現代語訳すれば次のようになる。 「私は政務の責任者には堪えられませんし、病もきわめて重く、政務にも堪えられません。ただし、上席の納言として何年も重ねた功労は、甚だ多いのです」 どれだけ苦労をアピールされても、政務に堪えなければどうしようもない。左大将である藤原教通(のりみち)が出世するという噂話と絡めて、道綱はこんな提案を行っている。 「云々のごとくんば、左大将を内大臣に任ぜらるべし。只、彼の内大臣を借し給へ、一月ばかり出仕し、将に辞退せんとす」 (うかがった話によると、左大将の藤原教通を内大臣に任じるとのことですが、それであれば、私にその内大臣の地位を貸していただき、1カ月ほど出仕して、辞退しようと思います) それでは辞めることを前提で1カ月ほど内大臣になってもらいましょう……となるわけがない。道綱もまたしょうもないことに頭を使ったものである。 そもそも、こんな志も意識も低い人材がよく大納言になれたものだと思ってしまうが、道長はどうもこの道綱と気が合ったらしい。道長が政治の中心になるにつれて、道綱は昇進を重ねている。 ドラマでは、上記のようなあきれた提案を道長に行い、もちろん相手にされなかった。しまいには「嫌いにはならないで~」と言い出して、道長のほっぺを両手で挟む、コメディーシーンまで飛び出した。道長はほっぺをぐにゅぐにゅされたまま「嫌いにはなりませんぬ」と言っている。道長にこんなことをできるのは道綱くらいだが、愛されキャラだった道綱の実像に、案外近かったのかもしれない。 結果的には、このとき顕光は辞任に至ることはなかった。寛仁5(1021)年に顕光が死去してから、藤原教通が内大臣に、実資は右大臣に昇進することになる。 道綱はさぞ悔しがったかと思いきや、この前年の寛仁4(1020)年10月15日にすでに病により亡くなっている。道長の死よりも8年も前のことだ。ドラマでは道綱の死は描かれなかったが、最後まで底抜けに明るいキャラクターでいてもらうために、臨終に触れなかったのだろう。