麻疹(はしか)にかかった息子が4歳で最重度知的障がい者に…「飛び降りたら楽になるかも」思いつめていた私の目を覚ました姉のある一言とは
◆24時間目が離せない 退院後の生活は本当に大変でした。病気の前は賢くて育てやすい子だったのに、とても手のかかる子に変わってしまいました。 脳の中のバランスが崩れてしまったのか、とにかく動き回る、危ないことをする、夜中に寝ないなど、24時間目が離せません。刃物を触ろうとしたり、ポンと投げ捨てようとしたり、さらに、グラスを叩いて割ってその上を歩こうとしたりすることも。 とにかく何をするのかわからないのです。トイレに行く間も置いておけないので、一緒に連れて入るような状態でした。 知能指数は1~2歳だと言われましたが、2歳にもならないと思います。とにかく1日1日を過ごすのが精一杯。でも、心根は優しくてお母さん子だったので、それだけが救いでした。 つらかったのは、近所の同学年の子どもたちが幼稚園に通う姿を見なければならなかったこと。一緒に通園する予定で、入園の準備もしていたのに、うちの子だけ通えない……。元気な子どもたちと息子を比べて、落ち込む毎日でした。 そんななか、縁あって今の土地に引っ越すことになりました。これでもう、あの子たちの姿を見ないですむ……。何事も逃げないことが大事と思っていますが、このときばかりは逃げることを選びました。逃げて大正解だったと、今でも思います。 義両親も慣れ親しんだ地元を離れて、一緒に来てくれました。家のことは私に一任されていましたが、助けの手があるのは本当にありがたかったです。娘の幼稚園の送り迎えも義母がしてくれました。
◆「障がい児・者の親の会」との出会い 息子が障がい児となって3年ほどは、元に戻るかもという希望を捨てられませんでした。こういう病院に行ったら治るんじゃないか……と、一生懸命あれこれ動いていました。 そんな私の考え方が変わったのは、「障がい児・者の親の会」との出会いでした。お母さん達がとてもたくましく明るくて、驚くほど前向きなのです。障がいを持つ子どもを「1人の人間として育てたい」という思いが伝わってきて、この人たちと一緒にがんばりたいと思いました。 あるとき、「何度も線路に飛び込もうと思ったのよ」という話を聞きました。私も息子が入院しているとき、病院の一番上の階から下を見て、「この子を抱っこして飛び降りたら楽になるかも」と思ったことがあります。 そうしたら、他にも「私も」「私も」と言う人がいっぱいいて。私だけじゃなかったんだ。それがわかっただけでも、とても救われた気持ちになりました。「仲間がいる」のはとても心強いものでした。 母親代わりとして私をずっと見守ってくれた4番目の姉に、「この子は福祉の世界で育てなさい」とはっきり言われたことも大きかったです。 それまでの私は、息子の病気を受け入れられずに悶々とし、「あの先生が悪い」「もっといい薬があるはず」「なんで私がこんな子どもを育てないといけないのか」と、嫌な気持ちにとらわれていました。姉の言葉に、ハッと目が覚めました。 同じ時期に参加した福祉の講演会で、「障がいを持っていることを認め、早く新しいスタートを切りましょう」と言われたことも、胸に響きました。 私はようやく、息子のことを受け入れることができました。「病気の子どもと一緒に生きていこう」と覚悟をしたら、不思議と泉のように元気が湧き出てきたのです。3年もかかってしまいましたが、私にとって必要な時間だったのだと思います。
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