あの「神武天皇」が江戸時代まで忘れられていたという「衝撃の事実」
神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。私たち日本人は、「戦前の日本」を知る上で重要なこれらの言葉を、どこまで理解できているでしょうか? 【写真】あの「神武天皇」が江戸時代まで忘れられていたという「衝撃の事実」 右派は「美しい国」だと誇り、左派は「暗黒の時代」として恐れる。さまざまな見方がされる「戦前日本」の本当の姿を理解することは、日本人に必須の教養と言えます。 歴史研究者・辻田真佐憲氏が、「戦前とは何だったのか?」をわかりやすく解説します。 ※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体』(講談社現代新書、2023年)から抜粋・編集したものです。
血湧き肉躍る建国神話
そもそも神武天皇はいかなる人物だったのか。その足跡は、現存もっとも古い日本の史書である『古事記』と『日本書紀』(両者はまとめて記紀と呼ばれる)に記されている。 この記紀はたいへんユニークな書物で、同じ奈良時代に編纂されたにもかかわらず、ときに大きく神話の内容が異なっている。そこで、ここでは共通する部分をかんたんに取り出してみよう。 神武天皇、本名イワレヒコ(神日本磐余彦尊)は、祖先より代々、九州南部を拠点にしていた。ところがある日、政治を執り行うのによりふさわしい大和に政治の中心を移そうと決意した。 船団を率いて出発したイワレヒコは、途中、九州北部や中国地方のあちこちに立ち寄りながら瀬戸内海を東に進み、大阪湾に上陸した。しかし、地元の豪族であるナガスネヒコ(長髄彦)に阻まれて、兄のヒコイツセ(彦五瀬命)が重傷を負うなど大きな痛手を受けてしまう。 そこでイワレヒコは、あらためて船に乗り、紀伊半島に迂回して熊野に上陸。そこから険しい紀伊山地を越えて、南より奈良盆地に入った。こうしてようやくナガスネヒコを打ち破って、橿原宮(かしはらのみや)で初代天皇に即位した。 『日本書紀』ではこの即位の直前、「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)とせむ」と述べたとされており、後世ここから八紘一宇ということばが作られた。 細かいことを抜きにすれば、神武天皇の物語はこんなところである。パッと読む限り、ゲームやマンガの題材になりそうな血湧き肉躍る建国神話である。