あの「神武天皇」が江戸時代まで忘れられていたという「衝撃の事実」
実は忘れられていた神武天皇
ところが、その主人公である神武天皇は、信じがたいことに、幕末までかならずしも重んじられていなかった。忘れられた存在だったと表現する研究者までいる。 その証拠に、江戸時代まで京都御所にあった天皇家の仏壇(御黒戸)には、神武天皇の位牌がなかった。あったのは天智天皇と、その子孫である光仁天皇・桓武天皇以降の天皇のものばかり。神武天皇を含む初期の天皇たちは、祖先供養の対象から外されていたのだ。 たしかに、『日本書紀』には壬申の乱(672年に発生した古代最大の内戦)のときに、天武天皇が神武天皇陵に馬や兵器を供えたとの記述が残っている。ただ、平安中期に醍醐天皇の勅命で編まれた律令の細則『延喜式(えんぎしき)』をみても、神武天皇陵はほかの天皇陵にくらべて特別な扱いを受けていない。 それどころか、中世になるとその所在は行方不明になってしまった。神武天皇陵が現在地に定められたのは幕末だし、今日のように整備されたのは近代以降。神武天皇とその皇后ヒメタタライスズヒメ(媛蹈韛五十鈴媛命)を祀まつる橿原神宮も、明治になって創建された。 神武天皇が軽んぜられた理由ははっきりしない。その存在が記紀にしか残らず、没年も『古事記』では137歳、『日本書紀』では127歳と、あまりに不自然だったからだろうか。これにくらべると、平安京遷都を実現した桓武天皇(その父が光仁天皇、曽祖父が天智天皇)ははるかに身近に感じやすい。 いずれにせよここで重要なのは、なぜ幕末になって神武天皇が急に思い出されたのかだ。先回りしていえば、それは明治維新に都合がよかったからにほかならない。 さらに連載記事<戦前の日本は「美しい国」か、それとも「暗黒の時代」か…日本人が意外と知らない「敗戦前の日本」の「ほんとうの真実」>では「戦前の日本」の知られざる真実をわかりやすく解説しています。ぜひご覧ください。
辻田 真佐憲(文筆家・近現代史研究者)